藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 1992年8月16日発行
アーサー・C・クラークの『スリランカから世界を眺めて』(原題:THE VIEW OF SERENDIP)の第一章はセレンディピティについて書かれている。この単語は対応する日本語がなく、訳書でもセレンディピティとしている(小隅黎氏は−掘り出しもの−と注を付けている)。辞書を引くと「あてにしなかった物を偶然に見出す才能」というように出ているのが一般的らしい。(一部に間違いと思われる辞書もあったが、今はその話ではない。)
セレンディピティという言葉の存在を、僕はこの本で始めて知ったが、実に気に入ってしまった。なんというか、古本道の心得を表しているような気がしたからだ。まあ、そんな道があったとしてのはなしだが。
ところで、クラークの訳書が出てから十年後あたりから、セレンディピティという言葉が日本でも、使われるようになってきた。
どーも、クラークが二十年くらい前に書いたあたりから、米国の研究所業界?あたりで研究にはセレンディピティが必要だなどと言ってみることが流行りになって、それが時差つきで日本にも波及してきたらしいのだ。
もっとも、日本にくると三年間の研究開発計画にセレンディピティを取り込めとか、一年で五件のセレンディピティを出せとか、たちまち日本式経営に取り込まれてしまうところが、なんとも言えない。
ところで『スリランカから世界を眺めて』によると、セレンディピティということばを発明、もしくは始めて活字にしたのはイギリスの小説家ホレース・ウォルポールであり、その語源は、おとぎ話の表題『セレンディップの三人の王子様』に使うためだとある。このおとぎ話が昔から伝わった話なのか、それともウォルポールの創作なのか、クラークも知らないと書いている。
この話を見て、僕は『セレンディップの三人の王子様』を探したことがあったが、見つからなかった。実際、翻訳はまだされていないらしい。
ところが、この『セレンディップの三人の王子様』が紹介されている本が、平成2年に日本で出版された。それも、14ページの絵物語としてだが、この本はおとぎ話の本ではない。では、どういう本なのか。これが今回、紹介したい本である。
紹介する本は、その名も『セレンディップ』という。発行は主婦の友社。著者は京都大学霊長類研究所所長の久保田競氏と、行動評論家という肩書を持つ夏村波夫氏である。
この本の表紙を見てほしいが「ツキを呼ぶ脳力 ニュートンのリンゴは君の前にも落ちる!」という壮絶な副題が目をひく。
帯には「勤勉と努力だけで成功する時代は終わった。大ヒット商品はすべてセレンディップな脳力が生み出した。ウォークマン ポカリスエット 鉄骨飲料」とあり、要するにこの本は、ビジネスマンのための発想法を説いた本とわかる。
著者たちは、これまでに『脳の手帳』『脳をはぐくむ新・子育て術』『ライフワーク・テーマの探し方』『ビジネス・センスの活かし方・殺し方』などの著書があり、この本もセレンディプという単語を持ち出していることを除けば、同様なものと考えてよい。
しかし、この手の本は、存在自体に矛盾を抱えているのである。「画期的な発想の出し方」という言葉をよく考えてみればわかることだ。特に、この本はセレンディピティを持ち出しているので、とくに矛盾が目だつのだ。
それでも、この本は矛盾した目標に対して努力はしている。実際、少しでも発想の幅を広げたいという需要は大きいのだから、このような本があって悪いわけはない。書いてある内容は無理にビジネスマン向けにしているために苦しいところがないわけではないが、許容範囲というところだろう。
さて『セレンディップの三人の王子様』のことだが、前にも書いたように、この本の口絵に絵物語として、抜粋が掲載されている。これが、まったく説明無しに掲載されており、なんと百八ページまでなんの説明もない。セレンディピティという言葉に予備知識がない人はどう感じるだろうか、なかなか大胆な構成で好感がもてる。
とにかく、さらにその一部を紹介してみる。
ペルシャの首都近くで、旅に出たセレンディプ(スリランカの古名)の三人の王子は、ラクダを失ったラクダ引きにあう。三人の王子は言う。
「それは片目のラクダかい?」と第一の王子。
「お前のラクダは歯が一本抜けてるね?」と第二の王子。
「それに、片足を引きずっているだろう?」と第三の王子。
彼らはラクダを見てはいないのに、全て当たっていた。
「道端の草が左側だけ食べられていたので、ラクダの右目は見えないとわかりました」
「草のかみ跡で、ラクダの歯が抜けていたのがわかりました。」
「片側の足を引きずったような跡がありました。」
と、いうような話らしいのだ。これでは、まるでシャーロック・ホームズではないか。
実際、この本ではシャーロック・ホームズこそ、セレンディピティの達人というように説いている。セレンディプな能力とは、シャーロック・ホームズのように、ほんの僅かな痕跡を見逃さず、その背後に隠されている真実を読み説く聡明さだ、と著者はいう。
それは、おそらく正しいのであろうが、ビジネスマンの発想法と短絡的に結び付けているため、読後には、鉄骨飲料の商品企画を立てるシャーロック・ホームズという妙なイメージが残ってしまう。なんと二股ソケットもセレンディプの例だそうである。
それとは別にして、この本は『セレンディップの三人の王子様』について詳しい情報を伝えた本として価値がある。クラークが発した疑問、この物語が昔から伝わった話なのか、それともウォルポールの創作なのかが始めてわかったのだ。
この本によると、この物語は、もともとペルシャにあったもので、ヨーロッパに始めて紹介したのは、クリフォード・アメルノ。彼がイタリア語に翻訳し、一五五七年『ペレリナジョ(徒歩旅行、または遍歴)』と題して出版された。ウォルポールが昔読んだというのは、デ・マイリーのフランス語の抄訳版で一七二一年アムステルダムで発行されたもの。ウォルポールは、友人との手紙の中で、ものを見つけだす才能について、昔読んだ物語を思い出して、そう呼んだのである。書簡のなかにあるので、彼がこういう童話を書いたわけではないらしい。
ウォルポールの手紙は、全集の中に収録されていて、エール大学で編纂されたものが、東京大学図書館にあった。その本は、今までに読まれた跡はなく、ペーパーナイフであけてセレンディプに言及した手紙を見つけることができたと言う。
英語訳は抄訳が数回発行されているが、完全な英訳は一九六六年、アメリカで発行された。日本語にはまだ訳されたことがない、という。
僕は、べつにセレンディプのことを調べていたわけではないのだが、トンデモ本を探していて偶然に『セレンディップの三人の王子様』のことを知ることができた。なんともセレンディプなことである。
なお著者は、クラークの『スリランカから世界を眺めて』のことは知らないらしい。原題が『セレンディプからの眺め』とも訳せることを知れば興味を引いたかもしれないが。