藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 1992年8月16日発行
『東遊記』という書名に記憶があるだろうか。『日本SFこてん古典』の第12回で『後西遊記』とともに紹介されていた本である。このうち『後西遊記』は『ごでん誤伝』で一九七七年に再び翻訳されていることを紹介した。
ところが、その後『東遊記』も最近になって、また翻訳されていることがわかった。しかも『東遊記』だけではなく『南遊記』『西遊記』『北遊記』まで、出ていたのだ。この本を古本屋で見つけたときは、本当に驚いた。
どうも西以外の三作は『西遊記』以後に、その人気にあやかって書かれたものらしいのだが、ともかく実在している。これらの書名は日本で編纂された中国関係の文献にはみあたらないが、魯迅の『中国小説の歴史的変遷』という一五〇ページ足らずの薄い本にはちゃんと載っていたから、たぶん中国ではポピュラーな小説なのだろう。
あの『封神演義』で訳者の安能務氏が文化マフィアの存在を訴えていたが、これは本当に存在するのかもしれない。ただし『東遊記』『南遊記』『北遊記』は、本当につまらない。今まで日本に紹介されなかったのがあたりまえと思えるほど、ひどいものである。
ただし、訳が悪い可能性もあるので、本当はおもしろいのかもしれない。
発行したのは、名古屋のエリート出版社という所で、上海の出版社との同時発行(つまり国際的企画)だという。僕が手に入れたのは神保町の古本屋でゾッキあつかいだったから、この企画はたぶん潰れたのであろう。
しかも『西遊記』は、話はよく知られた通りだが、なんと絵物語になっている。絵は中華人民共和国製であり、なかなか見事なものではある。ただし訳はあまり日本語としてうまくない。また原作からそうなっているのか、なにかの間違いで訳者が落としたのかは知らないが、悟空とお釈迦様の勝負の件がまったく欠落しているのは不思議としかいいようがない。
しかし内容よりも、すごいのは、コピーのセンスであろう。「二十一世紀の前兆来る前に読もう」「中国観光利用の小説・楽しみな歴史」「人を見る眼と心は絶対成功小説」など、ほとんど意味不明なある。この企画は、このメチャクチャなコピーで大損している。内容はともかく中国で明の時代から四百年以上にわたって読まれてきたことは確かなのだから、もっと上手く売れば、意外な成功をおさめたかもしれないのに。
どうも出版社が本だけではなく、中国茶と花粉(食品)の販売にも色気を出して、帯や見返しにサービス券や広告をつけてしまったのも失敗であるようだ。これらの広告は、それを扱うだけで「ごでん誤伝」の一章が書けてしまうぐらいの傑作ぞろい、それは図のほうを見ていただきたい。
なお、訳者は明治時代に『東遊記』が翻訳されていることも『日本SFこてん古典』のことも知らないようだ。
さて内容紹介といこう。『東遊記』は呉元秦の作、一名に『上洞八仙伝』又は『八仙出処東遊記伝』ともいう。これは、この本の解説だけではなく前記の『中国小説の歴史的変遷』にも載っているからまちがいなかろう。( 『こてん古典』でも不明であった原作者の名が初めて判明した。これを快挙といわずしてなんと言おう。)
『こてん古典』によると、八仙が東海に遊びにいき、竜王と戦いになることが主な内容だが、この本では全二百二十六ページ中、百九十三ページになってようやく東遊のエピソードになる。それまでは主に八仙のエピソードが書かれている。
八仙とは、鉄拐、鐘離、洞賓、果老、藍采和、何仙姑、韓湘子、曹国舅の八人の仙人のこと。『悪魔くん』に出てくるから、そうとう有名ではなかろうか。もっとも鉄拐という仙人は落語にも出てきた気がする。
この八人の生まれはそれぞれ異なる。
鉄拐は修行を志した人間で、太上老君の教えで仙人になった。
鐘離はやはり人間だが、武将で吐番(チベット)軍と戦っていた。しかし鐘離が勝ったら俗世にはまってしまうと考えた鉄拐のために、戦にやぶれ、放浪し、その内に教えをうけて仙人になった。
藍采和は「もともと裸足の仙人が下界へ下り、人となったもの」とある。この意味は僕には、なんのことかわからない。
張果老は「天地開闢の時から月日の精を得て、年を重ねること幾久しく化して人となった」とある。
何仙姑は広州の増城県、何素の娘であったが夢に出てきた神のお告げで仙人となった。
洞賓は「東華真人の生まれかわり」だという。もっとも仙人になった鐘離の導きで仙人になった(というより仙人に戻った。)
韓湘子はやはり唐の人、鐘離の導きで仙人となった。
だいたい、このようなエピソードばかりなのだが、あつかいにだいぶ差があり、鉄拐、鐘離は五十ページ以上あるが、他は数ページしかなく、唯一の女仙である何仙姑などたった2ページである。
ところで、だいたいは唐の時代に仙人になったこの七人は、ともに道を論じたり、ふざけあったりしていたのだか、あるとき洞賓が色に迷い、面目を逸したことがあった。なんとか名誉を挽回したい洞賓は、宋軍と北方の番族の戦いに目をつけ、天命を変えて番族を勝たせてやろうと試みた。自分の力を示したいということなのだが、天命が変わってしまったらたいへんなことだ。どうも中国の仙人の倫理感はわかりにくい。
鐘離などは天命を守るため当然、宋軍を援助し、まるで『封神演義』のような仙人同士の戦いになる。むろん、洞賓が負け、七人の仙人は仲直りをする。ここで、突然「上界の八洞諸仙もこれで七人はそろったわけだが、あと残りの一人がまだ見つかっていない。だれかいい者でもおらぬか。」
などと言い出す。水滸伝などとはちがって、この話では八人である理由がなにもない。なんで突然こう言いだすのかわけがわからない。
ともあれ宋の曹太后の弟の曹国舅がたった一ページのエピソードで仙人になって八仙がそろった。
めでたし、めでたしで、そろって東海に遊びにいくと竜王と戦争することになった。ここからが『こてん古典』で紹介された『東遊記』になる。もちろん、孫悟空もでてくる。ここで『こてん古典』に引用されている明治十七年の翻訳と、一九八七年の翻訳を比べてみよう。まずはエリート出版社、竹下ひろみ訳
その時、八仙の側の陣中から一人の大将が飛び出してきた。手に鉄棒をかかげ、ものすごい形相をして猪突猛進してくるので、天兵も思わずしりごみしてしまった。この人、斉天大聖であった。
次に、明治一七年の兎屋書店、斉東野人・根村熊五郎訳
折からたちまち、八仙が陣中より一員の大将鉄棒を持ち、物をもいわず天兵の中へ馳入り縦横無尽に撃ち散らすその状、剛猛無敵にして人ともいわず馬ともいはず打倒し打倒し奮戦するほどに、天兵その勇力に辟易し、ひらきなびいて敗走す。人々驚きてその人を見れば、これ斉天大聖孫悟空なり。
もちろん、元本が異なっていることも考えられるにしろ、あまりにも訳の迫力に差がある。たぶん明治の翻訳の方が忠実な訳ではないのだろうと想像できるが、そのほうが面白いようだ。しかし思えば一〇三年ぶりの翻訳なのである。思わず日中文化交流の歴史の深さに感動する!?まあ、しないか。しないだろうな。
『日本SFこてん古典』では横田順彌さんが「こんな小説、ぼくでもなければ紹介する人も永久にないにちがいないと思ってとりあげた」と書いているが、世の中にへんな人やへんな出版社はまだまだ多いようだ。
つぎに『南遊記』。これは余象斗の作で、またの名を『五顕霊官大帝華光天王伝』という。この話にも、孫悟空は出てくる。冒頭、玉皇上帝が催した通明会の席上である。通明会は、仙人などが自分の秘宝を自慢しにあつまる催しである。孫悟空は得意の術を披露して一等賞をもらって去っていく。
それとは、ほとんど無関係に、如来のもとにいた妙吉祥童子が殺戒をおかし、罪をつぐなうために馬耳大王の子供、霊光として生まれ変わらされる。だが殺戒をつぐなうはずなのに、親の仇とはいえ、竜王の首をとってしまうのか。へんな話である。
その後(いやになるほど)いろいろあって、結局は霊光は天界につかえて華光と名乗ることになった。孫悟空に相当するヒーローの誕生だ。だからというわけでもないだろうが、不自然にも天界でおおあばれして、天界のおたずねものになってしまう。
地上界に逃げた華光は、師から「いずれかの家の子として生まれ変わり、おとなしく過ごしていれば、いつかは玉帝の怒りもとけるであろう。」といわれ、地上の簫長者の五男として生まれ変わる。
ところが、この母がたいへんであった。じつは人喰い妖怪である吉芝陀聖母が出産直前の簫長者の夫人を喰い殺し、なり変わっていたのだ。で華光はそこから生まれたから事情は複雑だ。つまり生んだ母が即、母の仇でもあるわけだ。出生の秘密というやつはよくあるが、こんな例はあまりない。
どうも僕には、本当の母は喰われた簫夫人のほうではないかと思われるのだが、この物語では人喰い妖怪の吉芝陀聖母のほうを最後まで母としている。
どっかの鳥は、生まれたとき、最初に見たものを一生、母と思い込む習性があるそうだが、華光も同じようなものではなかろうか。
トリアタマの華光は、そのあと基本的には母を探すために、いろいろ妖怪退治をするのだが、どうも話が倫理にはずれているような気がしてならない。つまり弱いものいじめしかしないのだ。
またいろいろ、どうでもいいエピソードがあって、結局、母は地獄にいることがわかる。(人喰い妖怪なのだからあたりまえだ。)華光は計略をもちいて母を救出する。ところが母は人を喰いたい喰いたいといってやまない。困った華光はとんでもないことをする。
「人を食べたくなる病気を治せるものがいたら、至急、離婁山まで来られたし。応分の謝礼を用意す。」という立札をつくって世界中にばらまいたのだ。
あたまが痛くなるはなしだが、ともかく立て札をみて、来るものがいて、仙桃を食べればいいことがわかった。仙桃とは、その昔、孫悟空が盗んで大騒動の原因になった天界の桃だ。
華光は、なんと孫悟空にばけて仙桃を盗み出す。母は助かったが、怒ったのは罪を着せられた孫悟空。華光の犯行はたちまちばれて、孫悟空と対決することになる。ここで奇妙なのは孫悟空に娘がいることだが、本筋には関係ない。
結局、孫悟空は華光を殺してしまう。(!)すると華光の師があらわれて、悟空どの、どうか弟子を生き返らせてくださいと頼むとそこは孫悟空、すなおに願いを聞き入れて、華光を生き返らせ、弟分にする。
結局は、華光は再び如来の弟子にもどるのだが、なんとも不自然な話である。
さて最後の『北遊記』は、これまた余象斗の作、一名『北方真武玄天上帝出身志伝』という。
これが『南』に輪をかけてヘンな話なのだ。
主人公は、玉皇大帝、本来は天界の主であるえらい神のはずなのだが、なぜか地上にある瓊花(けいか)の木に心を奪われてしまい、どうしても地上に降りたくてたまらなくなる。とうとう自分を三つに分け、分身の一つが人間に生まれかわってしまう。ところで、例の瓊花には実は7人の如来が宿っていたのだ。天界の主が人間界にとどまっては彼らも困るため彼らは必死になって分身を天界に戻そうとする。
人間に生まれ変わった玉皇大帝の分身は4代にもわたって輪廻を繰り返したのち、ようやく天界に戻る。ここで昇天した玉皇大帝の分身は、玉皇大帝自身の部下になるのだからややこしい。
ところで、分身が地上に下りていた間に大変なことがおきていた。主人が不在の間に、彼の部下の三十六天将がすべて逃げ出して、地上におりて悪鬼となっていたのだ。
なんで天将たるものが簡単に悪鬼になるのか理解しがたいが、これが中国と日本の文化の違いなのかもしれない。とにかく分身は北方真武大将軍となり、三十六体の魔物を退治することとなった。
ここまでで全体のちょうど半分、ここからが本番。北遊記とは「北」方真武大将軍の話ということらしい。当然、ヒーローは北方真武大将軍である。
さて、次々と悪鬼を退治していく北方真武大将軍だが、奇妙なことに『南遊記』の主人公華光が十一番目の妖怪であること。つまり『南遊記』と『北遊記』は矛盾している。それに、つぎつぎに出てくる妖怪にも、あまり個性の強いものや特徴のあるものはいない。強いてあげれば、玉皇大帝の分身が昇天したとき、あとに残った内臓自身が妖怪になった亀と蛇の妖怪ぐらいだろうか。
ともあれ、三十六体の部下をひきつれて凱旋しておわりになる。
しかし、そもそもの発端であった瓊花の木はどうしたのか。
また、玉皇大帝の分身は、もとに合体しなくていいのだろうか。それとも玉皇大帝は分裂して増殖していくのだろうか。どーも、わからないヘンな話である。
この『北遊記』『南遊記』はマンガが巻末についている。また『四遊記』全体に挿絵が非常に豊富でおもしろい。ときどき日本のマンガの影響をうけている挿絵もあったりして楽しめる。
これだけでも、ゲテモノ本マニアは必見、また中国関係に興味がある人も注目すべきだろう。エリート出版社が、まだあるかは知らないが、この作品が日本でほとんど知られていないことは残念である。
神田の古本屋を見ると、まだ四遊記は入手可能なようであるので興味ある方は今のうちに入手しておくことをお勧めする。(一九九二年六月現在)
なお『中国小説の歴史的変遷』(一九八七年、凱風社)は、日本人の手による中国小説の解説には出てこない様々な情報が満載されていて、たいへんおもしろい。たとえば、西遊記の後日談には『後西遊記』の他に『続西遊記』『西遊補』なる作品があるという。また、このような神魔小説(この名称は魯迅によるものらしい)として『西遊記』『封神演義』の他に『三宝太監西洋記』なる小説があるという。
これは大航海で有名な明の鄭和が、法力で魔を倒す話らしい。とすれば、これは史上、類をみない宦官のヒーローが活躍する物語ということになる。翻訳はまだ出てないようであるが、ぜひとも見てみたいものである。