藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 1992年8月16日発行
今回は、久し振りに古い本を紹介する。昭和6年に出た本で、その名も『日本人の偉さの研究』という。
この題名を聞いただけで、もうトンデモ本であることがわかるだろう。しかし、その著者の名をみて、またたまげてしまった。
中山忠直。『日本SFこてん古典』を読んだことのある人ならば『地球を弔ふ』など多くの作品を残したSF詩人の名を覚えているだろう。その人が、こんなたわけた題の本を出すのだろうか。もしや同姓同名かとまで思ってしまったほどである。
内容はどうだろうか。ここで結論を書いてしまうが、はっきりトンデモない本である。その論理はコンノケンイチ並み、言いたいことは単なる大日本帝国万歳、それで反対者へは一方的攻撃、その手法は研究とは到底いえず、論としてなんの価値もない。まったく、これが『地球を弔う』を著した人の書くものだろうか、と驚くばかりである。
もっとも中山忠直に関しては『日本SFこてん古典』でも、極右思想の社会主義者と書かれているし、日本ヘブライ民族同祖説を唱えたということも紹介されているので、あまり不思議はないのかもしれない。
とにかく『日本人の偉さの研究』を紹介しよう。はじめにこうかかれている。
時代は移った。西洋を盲目的に崇拝することを、心理の探究と感ちがひして新しがっ たり、意味なく日本を軽蔑して、同胞から優越を感じたりする處の、錯覚的な賢人主義 の時代は過ぎてしまった。−−西洋有難家(アリガタヤ)の御本尊様の西洋から、逆に 日本が尊敬され出しては、如何に西洋崇拝病が膏肓に入った重症患者も、多少は自覚せ ずには居られなかろう。−−今はまさに其時期である。
著者は日本人の優秀性を科学的に証明したと称しているが、この本には、あまり科学的なところはない。
著者が根拠としているのは、第一章「日本人の科学的才能は世界一」というところで、米国内在住人口あたりの優秀な科学者数を比較し、日本人がもっとも多いと結論したりしているが、この結論は相当におかしい(注、調査は米国の地理学者ハンチントンによるもの)。どうやって優秀な科学者の数を出したかというとアメリカ科学者名簿千人から外国人を調べだし、それをこの国の移民の割合で割った値という。リストによると当時、在米日本人で優秀な科学者は三人であり、移民数は二万八千人。科学者数が少なすぎて有意なデータとは言いがたい。この値を科学者数1、移民数一万のベルギーと比べることに意味があるのだろうか。
そもそも当時、日本の優秀な学生が米国に留学あるいは移住を希望することはあったかもしれないが、ドイツやフランスの優秀な学生が自国より「野蛮な」米国に移住したいと思っただろうか。このあたりを考えると、日本人の優秀性は非常にこころもとない。
あと何処かの学力テストで日本人クラスが優秀な成績をとったとういう、やはり有意水準に達しているとは思えない分析があるくらいで、この本はちっとも科学的ではない。
しかし元々かなり無理な「科学的証明」をやろうとしているので、当然ネタはつきてくる。この本は始めはまだしも客観的データを出そうとつとめるが、後のほうになるとドンドン眉唾なはなしになっていく。第三章「日本人はなぜ強くて利巧か」にいたると、日本のものは何でも強いといいだす。
例として (1)日本の米は粘着質である、 (2)日本の材木は粘着質でなかなか折れない、 (3)日本紙は弾力性が強い、 (4)日本の牛の革は強い、 (5)日本婦人の毛髪は強いので輸出される、等の実例(主張?)をあげ、次のように結論する。
日本は此の様な弾力に富んだ物を産する風土である。此處に住んでゐて、粘性の米を 食ひ、粘性の家に住み、弾力性の紙やその他の物を用ふる日本は、自ら弾力性の物を生 ずる日本の自然界の靈氣を受けて、心も體も弾力に富むやうになる。日本人の底力、ね ばり強さは此処から來たのである諦められぬと諦めると云う心理は、日本のみが世界に 持つ特質である、日本と云う土地は其處に生れ育つ物を、強靱にするところの一種の靈 氣に充満している。
さて、こうしたことはまだ序論であり、この本の本論はもっと政治向きの事なのであるが、この『ごでん誤伝』では、そうしたことは一切無視することにした。中山忠直が間違っていたことは、その後の歴史が証明しているので、言う必要はないことだ。(もっとも第二次世界大戦のことをほとんど知らない人がけっこういたりするので最近は困る。)
さて、この本で一番トンデモない事例は、よほど日本人を自慢するネタに貧したらしく忍術を論じるところである。忍者は毒ガスの技術に長じていたとか言っているが、煙幕を毒ガスと言うのは少々苦しいところがある。(どーも、このころ毒ガスは最新兵器であったようで、この論は、今日の毒ガスのイメージとは違った感覚で捉えなければならないようである。別の話になるが、毒ガスについてあの西沢勇志智の著書を引用しているのは面白い。トンデモ本作者はトンデモ本を知るということか。)
さて、中山忠直の知り合いの忍者が、どんなエラい人か、見てみよう。少し長くなるが引用する。
私の親友の忍術家の藤田君は柔道や剣道において日本屈指の大家であり、棒から縄、水泳、馬術に至るまで、武藝が何一つとして、一流の人物並に出来ぬものはない上に、更に十八歳の時は易と人相とで上野の哲明館長をした程で、繪や彫刻には帝展出品の腕があり、歌や踊りに掛けては藤間の名取りであり、琴、三味線、琵琶の妙手で手品の妙手として自ら天勝と腕くらべをしても、彼女には決してまけぬといってゐる。私の知れる限りでは、日本にこんな天才があるかと思ふ。これ等の事が何でも出来ねば、忍術家にはなれぬのである。
(中略)
良く忍術家は犬に身を變ずるといふが、あれは忍術家が犬を使って身をのがれるために、あらかじめ自分は犬に變化できると称して、愚人を迷わせておいたに外ならぬ。忍術家は追はれる様な場合に,犬の啼きまねをしながら犬を呼び集めて走る。すると犬が所々からどんどん集まってくる。そして良い時分に身をひるがえして適当に隠れてしまうのである。
それで忍術家は犬の啼聲(こえ)が出来ねばならないが、我が藤田西湖君は犬と話をするので、子犬と大犬の啼方を分ち、更に雌雄の犬の啼方を分ち、白犬、赤犬、黒犬の啼方を分けてほえる。同君は犬は色によって聲が異なるので、およそ色には聲があるといひ、更にまた色には味があるといふ。
色に味があるといふのは變だが、同君がガラスのコップをガリガリ食ふのは有名な話で、これは詐術を使って食ふ如く見せかけるのではなく、眞に食ふのであるが、青い色のコップ、赤い色のコップ、おのおの色によって味が異なるといふている。白犬、黒犬、赤犬と啼聲を變じて人に聞かせる喉の持主がかくいふのは本當であらう。
同君は犬の啼聲の外、猫でも鳥でも何でも、いやしくも音を出すもので眞似れぬものはなく、氏の喉からは三味線の音、琵琶の音、ギター、マンドリン、バイオリン、尺八、笛の音は何でも出す。猫八といふ物眞似の藝人があつたが、彼は藤田君の五分の一も出来まい、猫八は下手な藝人で、あれ位は私でも出来よう。
藤田君がコップを食ふといふが、悪食と大食にかけては名代で、煉瓦を一枚半も食ひ、猫イラズを飲み、硫酸を飲む、米俵を一枚も食ふに到つては魔物の様だ。蛇のやうな物や鰻の丸飲み位はお茶の子である。
同君は今日の靈術家と称するものゝ、元締をしてゐるといつてもよく、劍の刄渡り、火渡り、氣合等なんでもやり、江間俊一君は同君の弟子である。職人の針を軆に刺す藝當に到つては、同君が日本のレコード・ホルダーで二百八十本の記録がある。
自動車を胸の上を走らせ、東西に全速力で走る自動車を兩手で引き止め、柱にゲンコツの穴をあけるに至つては、人間技ではない。以上如何に同君が稀世の天才たるかは、知るに足らう。學問の研究に到つては、學者がハダシであって、學理明哲の人である。
ふー、これは凄い。これでは、たしかに日本人はエラい。しかし馬鹿にされている猫八(先代の猫八)は現代に残っているが、中山忠直も親友の忍術家もほとんど忘れ去られた存在でしかないのである。
実は、まだまだ忍術の話はつづくのだが、もう紹介はこのくらいにしておこう。この本は昭和初期の本としては、あまり珍しい本ではないらしく、ここ数年で4回ぐらいみかけたことがある。『地球を弔ふ』よりは余程売れたらしい。興味のある人は探してみるのもいいかもしれない。
最後に一言。歴史は繰り返す。少なくても愚行は繰り返される。