江戸門 晴美 著
昭和一七年 帝国科学振興舎 発行
平成四年八月十五日 南 要復刻
連載第一回
土星の首都、光輪市は、今、静かな夜を迎えていた。
夜空には、天空を真一文字に横切る、巨大な光輝く橋が掛かっていた。その正体は、この太陽系第二の巨体を誇る遊星が持つ、独特の輪なのである。その光の橋を巡るかの様に、十個もの月が複雑な軌道を描いて動いていく。この土星の夜空程、壮大で、美しい眺めは、太陽系広しと雖も、他に比べるものは無いであろう。
その壮大な天空絵巻の下、光輪市は眠っていた。
昼間は、数多くの土星人や、地球人達が通る大通りも、人っ子一人、自転車の一台の影も見えず、お役所や、会社の事務所が入っている大摩天楼群も、ほんの一部の窓に明かりが灯っているだけだ。静寂の中、時々響く遠雷の様な音は、光輪市の近郊に設けられた土星中央宇宙港に出入りする、宇宙ロケットの爆音である。
地球人類が、この遊星に降り立ってから、既に、二百有余年がたっていた。
時に皇紀二千九百九十九年。読者諸君の世界から、実に四百年近く後の未来の事である。
この時代、地球上のあらゆる人類は、我が大日本帝国を盟主として、一つにまとまっていた。更に、我が帝国は、宇宙ロケットの発達に伴い、太陽系の諸遊星へと進出し、そこに棲む各遊星人類と友好を結び、或いは導き、諸遊星の人々にその威を示していった。そして、遂には我が大日本帝国は、その指導の元、『九星一宇』の大理想を掲げて、全遊星人類の『王道楽土』を建設せんと、太陽系共栄圏を確立したのであった。
九つの遊星は、それぞれロケット宇宙船の航路で結ばれ、諸遊星人達は、我々が航空機や船舶で、南洋や、大陸に行くのと同じ様に、太陽系中を行き来していた。これは、そんな時代の物語なのである。
さて、ここ、光輪市の中央には、遊星巡査局の土星支局があった。遊星巡査局とは、諸遊星にまたがって起こる宇宙犯罪や、遊星間を行き来するロケットを襲う、海賊ならぬ天空賊共を取り締まったりする、宇宙の警察の事である。広大な土星各地と、十個の月、その周りの宇宙空間の治安を預かる土星支局は、ここの所はさしたる事件も有りはしなかったが、それでも慌ただしく、不夜城の観を呈していた。
「ふうむ。何とも良い月夜ではないか。」
巡査局の門番に立つ、年かさの土星人の巡査が、一片の雲無く晴れ渡った夜空を見上げて呟いた。
今、夜空の光の橋には、第二衛星のエンケラアドウスと、第七衛星ヒプェリオンが掛かっており、東の山並みからは、一番衛星のテイタンが顔を覗かせようとしていた。
今日は気温も暖かく、肌に心地よいそよ風が時折吹く以外には、風も無かった。土星の温帯にある光輪市が大変に暮らしやすいのは確かだが、それでも、こんなに気持ちのいい夜と言うのは滅多にあるものではなかった。辺りには、近くの公園で満開になっている土星菊や、星海蘭の甘い香りが満ち満ちている。
「全くです。ここのところ、土星の状況は天下泰平。のどかなものだ。しかし、あんまり退屈なのも飽きてきますね。ここらで、一つ大事件でも、起こらぬものですかねえ。」
同じく、番に立っている若い土星人の巡査が、深呼吸しながら答えた。口ではそんな事を言いながら、彼もたっぷりと泰平を楽しんでいる様だ。
「馬鹿な事を言うものじゃない。」
年かさの巡査は、その土星人独特の青い顔を、ちょっとしかめて見せた。
「天下泰平、多いに結構じゃあないか。大体、近頃の若い者は…。」
年かさの巡査が、若い巡査をたしなめようとしたその時、どこからか、ヒューンッと言う甲高い音が聞こえてきた。
何事かと思って、二人が音の方を振返ると、向こう側の通りの角を、猛烈な速度を出した一台の浮遊車が、巡査局の方へと曲がって来るではないか。浮遊車は随分と乱暴な運転で、道路の脇のごみ箱をひっかけて倒し、歩道の沿石を擦り、こちらの方へと突進して来た。
「なんて、酷い運転だ。何者かは知らぬが巡査局の目の前で良い度胸じゃないか。」
年かさの巡査は、電気松明を点灯させると、さっと浮遊車の前に飛び出して、両手を広げ、浮遊車を停車させようとした。それに続いて、若い巡査も慌てて道路へと飛び出した。
「停まれ、停まれい!」
二人は警笛を鳴らし、大声で叫んだ。それに気付いたのか、浮遊車は、もの凄い音を立てて、二人の巡査の前に急停車した。車の底部から噴出していた空気が止まり、車体がゆっくりと地上に降りた。と、それと同時に、浮遊車の中から、まるで、何かに弾き飛ばされたかの様に、一人の地球人の老人が飛出してきた。どうやら西洋人の様である。
それを見た年かさの巡査が、間髪を入れずに怒鳴り付けた。
「貴様、何という運転だ。一つ間違えれば大事故になるのだぞ。」
だが、浮遊車の老人は、そんな事はお構い無しに、巡査達の方へ自分から走り依って来ると、年かさの巡査の肩を捕まえて叫んだ。
「た、頼む。支局長に、会わせてくれ。いや、支局長じゃあ話にならん。地球だ、地球の遊星巡査局の本部に取り次いでくれ。」
その老人の余りの勢いに、年かさの巡査は面食らい、老人の顔をじっと見やった。
その老人の顔は、長い人生の間ずっと外で働いてきた証であろうか、随分と渋い、光を失った様な赤銅色をしていた。その表面には、深い皺がそこかしこに走り、顎と頬は、白い短くて固い髭に覆われていた。鉄の意志と頑固さを持った老農夫。老人の顔はまさにその典型といっても良いものであった。が、その顔の中に光る青い目は、そんな老人の風貌に似付かずに、ありありと恐怖の色を浮かべ、殆ど焦点を失っているかの様であった。
「ち、地球の遊星巡査局の本部だって!?爺さん、何を寝ぼけた事を言ってるんだ。」
年かさの巡査は、肩から老人の手を振り払うと言った。
「あれ?あんた、ジョン爺さんじゃあないか。」
傍らから、老人の顔を覗いた若い巡査が言った。
「お前、この爺さんを知っているのか。」
「ええ、光輪市の南の外れで、土星馬や、一角牛の牧場をやっているジョンと言う爺さんですよ。偏屈で有名な爺さんでしてね。おいおい、ジョン爺さん、一体全体どうしたって言うんだね。」
だが、ジョン老人は、そんな問いには少しも答えずに言った。
「地球だ。地球だよ。地球の巡査局へ、太陽系共栄圏政府へ連絡してくれ。兎に角、太陽系の一大事なんだ。」
若い巡査は、老人の余りにも突拍子の無い返事に、肩を竦めると、苦笑いしながら、年かさの巡査に言った。
「太陽系の一大事とは、恐れ入りましたね。この爺さん、少し頭がおかしくなったんじゃないんですか。」
「儂は、狂ってなんぞおりゃあせん。早く、早くしてくれ。早くせんと、や、奴等がやってくるんだ!」
ジョン老人は大声で叫んだ。
二人の巡査は、あきれ返った様に顔を見合わせ、頷き合うと、ジョン老人の腕を両側からとろうとした。
「爺さん。今夜は、留置場で一泊して、頭を冷やすんだな。さあ。」
「留置場よりも、診療所の方がいいのと違いますかね。」
だが、ジョン老人は、その痩せこけた体に似合わぬ力で、巡査の手を振り払うと、今度は哀願する様な調子で言った。
「わ、儂の言う事が信じられぬなら、それもでもいい。ならば、こいつを、こいつを、地球のしかるべき筋へ届けてくれ。頼む。」
老人は、震える手で、懐から、一つの油紙の包みを取り出した。
「なあ、頼む。こいつを地球へ届けてくれ。こいつを奴等の手に渡したらいかんのだ。」
「ああ、判った、判った。そいつは預かろう。だから、こっちへ。」
年かさの巡査は、精一杯の作り笑顔を浮かべて、ジョン老人から包みを受け取った。その隙を狙って、若い巡査が、ジョン老人を取り押さえた。
「さあ、爺さん。おとなしく留置場へ行くんだ。」
表情を厳しくして言う若い巡査を見上げて、ジョン老人は泣きそうな声を出した。
「判った。留置場でも何でもいくよ。だが、兎に角、そいつを地球へ届けてくれ。奴等が来る前に。奴等の手に渡ったら、本当に大変な事になるんだよ。」
ジョン老人の手を引っ張りながら、若い巡査が聞いた。
「奴等、奴等って、一体誰の事なんだ。」
その問いに、老人は、呟く様に答えた。
「て、天狗…。宇宙天狗党。」
「て、天狗だって!?」
思いがけない答えを聞いて、若い巡査がジョン老人にもう一度、聞き直そうとした時、例の包みを受け取った年かさの巡査が、驚きの声を挙げた。
「おお、こ、これは!?おい、爺さん!こんな物を一体、何処から手に入れたんだ。」
年かさの巡査は、老人から渡された包みが、万が一、危険な物であると困るので、包みを開けてみたのだ。しかし、その中身は、全く彼の想像を越えた物であった。
一丁の拳銃。それがその包みの中身であった。だが、それは、昨今使われている様な破壊力線ピストルでは無かった。もう、どこでもとうに使われなくなっており、今では博物館ぐらいでしかお目に掛かれなくなっている、火薬で鉛の弾を撃ちだす古い形式の拳銃であった。それは、六発の弾丸が入った回転弾層を持つ代物で、良く亜米利加の西部劇等で、保安官や、無法者達が使用しているコルト型の拳銃であった。
それにも増して目を引くのは、そのピストルの造作だ。なんと、全体が、黄金で出来ているのだ。その黄金の本体には、そこかしこに精密な浮き彫りが施されており、台尻には、特に目立つかの様に、四十九個の星型が彫られていた。 それだから、ちょっと見ただけで、このピストルが只の代物では無い事が、素人の巡査だとてすぐに判った。
「一体、これは何なんだ。こんなとんでもない代物、なんの理由も判らずに預かる訳にはいかん。爺さん、ちゃんと筋道を立てて話してもらおうか。」
だが、ジョン老人は、そんな言葉には耳も貸さずに、声を張り挙げ、わめき立てた。
「駄目だ。話せん。いや、おまえ達では話しにならんのだ。地球へ、地球の太陽系共栄圏政府へ渡さねばならんのだ。こいつは、こいつは、ル、ルウズ!……。」
そこまで言った時、突如、ジョン老人が言葉を詰まらせた。そして、その体はガックリと、若い巡査の腕の中へと崩れ落ちた。
「お、おい、じ、爺さん、どうしたんだ。」
若い巡査は、ジョン老人の体を抱き起こそうとした。そして、ジョン老人の背に、一本の白羽の矢が突き立っているのを見付けた。
「やや、これは!しっかりしろ、ジョン爺さん。」
「ううむ。何奴だ。」
事態を見て取った年かさの巡査が、矢の飛んで来たと思しき方向へ、さっと、電気松明の光りを走らせた。すると、その光りの中に一人の男の影が浮かび上がった。
その男の姿を見て、巡査は、一瞬、息を呑んだ。
その光りの中に浮かび上がった男のなんとも異様な風体。修験者の様な白装束を身にまとい、背には、白羽の矢を差した胡録を背負い、左の手には、一張りの梓弓を握っている。更に奇怪な事に、その顔には、緑色に金の隈取りを施した烏天狗の面を被っているのだ。一見して、この怪人が、その弓で、ジョン老人を射たのは間違いの無いところであろう。
「て、天狗!?」
巡査の頭の中に、先程のジョン老人の言葉が蘇った。その余りに奇怪な事態に、巡査達は、あ然として、まるで動く事を忘れてしまったかの様に立ち尽くした。
天狗面の男は、声も立てずに、じっと、立ち尽くす巡査達を見つめていたが、やがて、軽く頷くと、闇の中へと、その身を踊らせた。
「ま、待てい!」
漸く、我に返った年かさの巡査が叫んだ時は、既に遅かった。巡査は、電気松明でそこかしこを照らしてみたが、天狗面の男の姿は、もう、何処にも見当たらなかった。まるで、闇の中に溶けこんでしまったかの様に、消えてしまったのだ。
「おい、しっかりしろ。しっかりしろ!」
背後では、若い巡査が、その腕に抱えたジョン老人に、必死に声を掛けていた。老人は、息も絶え絶えであったが、突如、そのうつろな目をかっと見開くと言った。
「ル、ルウズベルトの財宝。…」
その一言を発して、老人の首は、がっくりと折れた。
「おい、しっかりしろ!しっかりしろ!」
若い巡査は、必死で老人の体を揺すってみたが、既に、老人は事切れていた。「ル、ルウズベルトって、一体?」
呆然としている若い巡査の問いに、年かさの巡査は静かに首を振った。
信じられぬ様な事態に、お互いに、顔を見合わせた二人の巡査の後ろで、外の騒ぎに気付いた、局内の巡査達の声と、足音が聞こえてきた。