TDSF叢書2

マッドサイエンティスト入門

−その傾向と対策−

藤倉 珊 著

TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行

付録



付録1 Through the Looking Glass

 量子電磁気学によると真空とは、hω/2のエネルギーと、それにともなう揺らぎをもつ場だそうである。なにがなんだかわからない。この話をきいたら、色即是空と唱えたくなった。まったく理論家という種族はなにを考えて生きているのだろうか。
 しかし、定義がどうあれ、相手が真空ならば、まず安心と考えていた。ブラックホールなどの反則技でもつかわなければ、真空そのものに手を加えられるはずがないからだ。ところが最近、案外簡単に手を加えられてしまったという話がある。

 仕掛けはたった二枚の鏡である。鏡を二枚、向かい合わせにすると悪魔がでてくるとも聞くが、物理学ではこうしたものをファブリ・ペロー型共振器とよんでいる。これが非常にくわしく研究されているわけは、レーザー装置のミラーがこの形をしているので応用上、非常に重要であるからだ。それでも、あいだに御本尊のレーザー活性物質がない合わせ鏡だけでどんな御利益があるというのだろうか。
 ある説明によると真空は無限の共振モードをもっている。しかし共振器(合わせ鏡だ)の中では、有限の共振モードしか持ちえない。ゆえに共振器内の空間は真空よりも揺らぎ(つまり雑音が)ないというのだ。
 つまり、適当な共振器内の空間は、真空そのものよりも電磁的にエネルギーがすくない。つまり、こうした空間は光子がゼロの状態よりも、もっと暗い。
 ゼロより暗い状態を、どうしたら確認できるか。それには自然放出という現象を観測する。自然放出は、真空のゆらぎ自体とふかく結びついている現象である。そして実際、共振器のなかの原子の自然放出光を抑制し、また増強するという、ほとんどhを制御したに等しい実験が成功したと聞く。
 さらに応用として、対象にまったく変化をもたらさない測定(量子非破壊測定)だの、励起状態を含まないレーザーだの、いくら分岐しても信号強度が減衰しない通信方式などが理論的に考えられている。もっとも実現はまだ難しそうだ。ちょっと油断しても真空が入り混んでくるからだ。
 しかし、この宇宙の基礎である真空場自体が、たかが二枚の鏡ごときで変化し、制御されてしまうというのも不思議なはなしである。やはり、合わせ鏡の中からは悪魔がでてきたのだろう。ただし、その悪魔はマックスウェルの悪魔だったのだ


付録2 Sirius

 それまでの科学上の常識が、たった一つの事件で、ひっくり返ってしまうことがときどきある。一九八七年、大マゼラン星雲で超新星が観測されたことは、そうした事件の一つだった。
 とくに、ニュートリノの検出は、それまで暗黒物質の最有力候補として唱えられてきたニュートリノに質量があるという説をほぼ完全に否定した。数エレクトロンボルト以上の質量のあるものが十六万光年の旅を経たにしては観測されたパルスはあまりにも細すぎたのだ。
 またこれは超新星爆発前の星が同定された初めての例だった。驚くべきことに爆発したのは青い星だった。従来、赤色巨星だけが重力崩壊をおこすと信じられていたにもかかわらず。
 しかし新たな理論はたちまち作られた。赤色巨星は爆発のほんの直前に収縮して温度が上がり一見、青色巨星になってから爆発するという。青色になる時期は数千年ともいう。

 ここで思い出すのはシリウスのことである。ギリシャの天文家によるとシリウスは二千年前には赤い星だったらしい。同様な観測は世界のあちこちにあり、どうも古代においてはシリウスが赤かったことは確からしい。だが、これまで星の進化の理論から赤い星が青くなることはありえないとされてきたのだ。
 しかし今、赤色巨星が超新星爆発直前に収縮し、青くなることが理論的に示された。とするとシリウスは今まで信じられてきたような若い星ではなく老星の最後の輝きなのではなかろうか。そもそも伴星が老齢の白色矮星というのに主星が若いのは不自然でもある。
 ではシリウスは超新星直前の状態にあるのではなかろうか。そう考えることは楽しい。これは見物である。なにしろ、たった八・七光年しかない。
 これまで、ケプラーの星以来、四百年もの長きにわたって銀河系内で超新星は起きなかった。しかし、おそらく人類百万年の歴史で最大のイベントとなるであろう超新星が数千年後か、もっと近いうち起きるかもしれない。じつに楽しみなことである。



「二版にあたっての注」および「再版に関してのあとがき・補注・その他」に続く


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