藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行
番外編
マッドサイエンティストにも家族がある。しかし、その多くは語られることはない。家族団欒しているマッドサイエンティストなどパロディのなかでしかありえない。
そもそも、既成概念に捕らわれることを本能的に嫌うマッドサイエンティストは、家族も嫌うのが当然と言うものであろう。人間であるかぎり、親兄弟を避けることはできないが、たいていは別れて住んでいるものである。
しかし、凡人の作になる多くの物語のなかでマッドサイエンティストの家族といえば、娘である。マッドサイエンティストとその美しい娘、これこそ黄金のパターンというものであろう。
しかも、たいていは妻も息子もいないのに一人娘だけがいるという設定である。
ここで、本来なら、古今東西のマッドサイエンティストについて統計をとり、家族がいるもの何名、うち娘がいるもの何名、息子がいるもの何名・・・という数値をあげるのがすじというものだろう。
そーいうことは、ぜひやりたい・・・ことはやまやまだが、資料もヒマもないので〈マッドサイエンティストには、美しい娘がいるものだ〉という思い込みだけで論じさせていただく。もっとも、マッドサイエンティストには普通は息子がいるものだと強く主張する人が出てくるとは思えない。
しかし、超大物で顕著な例外が少なくとも一人は存在する。天馬博士のことであり、彼には一人息子トビオしかいなかった。成原博士に息子がいるのは、そのパロディであるのだから当然のことで独立事象とは見なせない。(成原博士の真の子供と言うべきは、むしろアール・デコの方であり、これは法則に合致する。)
この件について、友人に聞いたところによると、鉄腕アトムは初期設定では女だったという話があるそうである。私には、真偽のほどは、わからないが、いかにもありそうな話である。とすれば、この場合も娘ということになる。
またプロフェッサーKには、娘はいないが、姪がいる。
死神博士にも娘はいたそうである。
県立地球防衛軍の猪上博士には当然、サイボーグ娘がいる。
もっとも新しくは白神博士にバラの似合う怪獣ムスメがいる。(ろくな例でないな。)
ここにマッドサイエンティスト研究の大きな課題がある。いったい、妻が存在しないのにどうして娘がいるのだろうか。
あり得る多くの説明のうち、もっとも安易なものは、妻が死んだというものである。しかし、一体どんな夫婦生活を営んだのか想像することはなかなか困難である。
実際のところ、妻に逃げられたケースの方が多いのではなかろうか。なに破局の原因は夫の側にあったに決まっている。どう考えても、なぜ相手が結婚する気になったのか分からん場合が多く、精神操作か合成媚薬でも使ったとしか思えない。
このあたりを想像することも恐ろしいが、もっと恐ろしいことは娘にどんな育児をしたのだろうかということで、マッドサイエンティストが娘のおしめを替えている姿は、あまり想像したくない。
幼児期には、妻が健在だったという仮定もなりたつが、いわゆる「博士のむすめ」が母親のことを語ることは滅多にない、それどころか末期的なファザコンだったり、特殊な教育をうけていたりすることも多く、マッドサイエンティスト自身が育児をしたと思われるケースが多い。
このあたりは「育児するマッドサイエンティスト」という新しい研究テーマに発展するような気がするが、あまり深入りしないほうが無難であろう。
さて、妻が死んだ説よりも有力なのは、妻はいなかった説である。この場合、むすめの正体としては、合成人間であることが最も一般的であろう。もちろん、それがアンドロイドかクローンかホムンクルスか魔道生物かなどと言ったことは、あまり問題ではない。
実際、このほうがマッドサイエンティストの道としてスジが通っている。生命の創造こそマッドサイエンティストの本業とさえいえるからだ。
しかし、この場合、本当にマッドサイエンティストが娘が欲しかったのか、ということが問題になる。マッドサイエンティストといえども寂しいときもある。たまには家族を作ろう−と考え
ても不思議はないかもしれない。しかし、普通の人間ならば妻か恋人を作ることを考えるのではなかろうか。
そりゃ、マッドサイエンティストは普通の人間ではないかもしれない。しかし、年下を好むという理由は、あまり考えにくい。マッドサイエンティストはけしてロリコンではない。イメージ的にもなかなか結びつくものではない。
もっとも、年の差という問題のためかもしれない。マッドサイエンティストが人間を合成できるほど技量が上がるまでに、年を取り過ぎてしまっている場合はしばしばあるから。
現代でも技術屋が婚期をのがすことが多いとかいうが・・・この場合は、合成人間を作るほどの技量はたいていないのでパソコンに向かって空しく時を過ごすことになる・・・話がリアルになってしまった。
話題を変えよう。
さて、最も重要な場合は、娘をつくったとしても、マッドサイエンティストは望んでいなかったが、なにかの実験の副産物として偶然できてしまったという場合である。
むしろ、これこそが「マッドサイエンティストの美しいむすめ」として理想的な姿であろう。
はじめは、意図せずにつくってしまったが、だんだん情が移ってきたという場合もあろう。
もっとも邪悪なマッドサイエンティストが娘のために改心する(あるいは挫折する)ようなパターンは、僕にとっては、あまりありがたいものではない。よりすぐれたパターンは、父のために世界征服の指揮をとるなどがよろしい。
その意味では、R・29号は理想的である。
「よいかR・29号!なまじ安逸な高校生活など体験してしまったためにくさりきってしまった。
R・28号にかわり、おまえが世界征服の指揮をとるのだ!!」
やはり、こうでなくてはならない。もっとも、この後の展開にはマッドサイエンティストの娘として多少不満がある。
世界征服の指揮官であるR・29号は、大帝王陛下バンザーイと叫んで自爆するのが正しいありかたではなかろうか。むむむ、これではヘル・マリィではないか。
結局、ただの幹部で終わっては、あまりおもしろいものではない。
マッドサイエンティストの娘として、いま一つのパターンがある。すなわち娘自体がマッドサイエンティストである場合である。
これは、パロディに多いパターンだが、むしろ最近は、このパターンのほうが主力なのではないかと思えるほどである。もっとも、五十年代に「マッドサイエンティストとその美しい娘」というパターンがあったならば、現代では世代交代し、美しい女マッドサイエンティストが主流になることは理にかなっている。
では「マッドサイエンティストの娘」はマッドサイエンティストの後継者なのだろうか。この点が問題だ。実はマッドサイエンティストの後継者という考え方自体が実は矛盾している。
なぜならマッドサイエンティストは、原則として育てられて生まれるものではないからだ。原則として、とことわったのは、世の中には「普通の変人」とか「予想された事故」とか矛盾したものが、いくらでも存在するからだ。
その例から言えば、養成されたマッドサイエンティストもあっておかしくはない、矛盾した存在であるにもかかわらず。
そう、マッドサイエンティストの娘という存在自体も、やはり矛盾したものなのだ。だからこそマッドサイエンティストには、美しい娘がよく似合う。
レンズマンシリーズを読んだ人のなかでも、キニスン家が第二次世界大戦中に何をしていたのか覚えている人は、あまりいないようだ。
このシリーズではキニスン家はアトランティス以来、つねにエッドールと戦いつづけている設定であり、各世界大戦中のエピソードが『三惑星連合軍』に描かれていることぐらいは、たいていの人が覚えているようだが、さて具体的なエピソードとなると記憶にない人が大部分と思われる。
この『一九四一年』と名付けられたエピソードには、もっと注目すべきなのではなかろうか。これは、シリーズ中唯一の「現代編」であること、シリーズ中唯一活劇のないエピソードであること、また主人公がE・E・スミスの分身というべき人物であることなど、極めて異色の作品である。
実際、これはSFではない。それどころか科学者の小説ですらない。あえて言えば企業小説である。
レンズマンシリーズというより『検査部の陰謀』と題したほうが、内容にふさわしい。 ずっと後、宇宙英雄となるキムボール・キニスンの遠い先祖は、現代(大戦当時)において、検査部の不正に抗議してクビをかけて戦い、クビになるのだ。
実は、僕自身も、この作品はレンズマンシリーズ中、もっともつまらない作品として忘れ去っていた。中学生には、なにが書いてあるのか、まるっきりわからなかったのだ。
まあ、実際に職場を経験しないと、とてもこの作品は理解できないだろう。もっとも理解したところで、さほどたいしたことが書いてあるわけでもない。ただ、その描く事件が、おそらくはE・E・スミスの体験にもとづくものではないかと思われる点が興味ぶかいのである。
ともあれストーリーを思い出せない人のために、『一九四一年』の要約を示そう。どっかの映画のタイトルにあったような気もするが、この年は真珠湾を意味している。この話の発端は、のんびり『エクストロオーディナリー・ストーリーズ』を読みながらラジオを聞いていたラルフ・K・キニスン博士が、真珠湾のニュースに驚くところから始まる。
有機化学の博士であるキニスン博士はこのとき五十一歳。これは一九四一年におけるE・E・スミスの年でもある。レンズマンシリーズ唯一の熟年ヒーロー?というべきだろう。第1次世界大戦中のエピソードの主人公でもあるが、内容的には無関係である。
ともあれキニスン博士は、経済的にはまったく困っていなかったが、国のために自主的に働くことを申し出て、結局はミシコタにあるストーナー・アンド・ブラック社のエントウィッスル兵器工場内の化学研究所で働くことになる。
ここで下級化学技師として働き始めたキニスンは、みるみるうちに中級化学技師になり、上級化学技師になり、次長になり、技師長に出世する。わずか6ページで、ここまで出世するのは不自然だが、レンズマンシリーズとしては控え目なほうであろう。
この化学研究所の雰囲気はきわめて自由であり、研究者自身から「シベリア」と呼ばれていた。
描写からすると番外地という意味で、むしろ「アバシリ」と訳すべきだったように思う。シベリア人という訳語がやたらに出てくるのも研究所にエスキモーがいるようでよくない。これもアバシリ組とでもすればよい。ともあれ、これはいわゆる独立愚連隊方式であり、現代の企業活性化ストーリーを見るようでおもしろい。
しかし問題がおこった。工場で生産していた地雷が早期爆発を起こすのである。彼のスタッフは、その原因が撃針にあることをつきとめ、生産中止を進言する。しかし不可解なことに、その処理はうにむやにされていくのだった。そんなとき、キニスンはふいに検査部門の部長になる。
そこは、きわめて非能率で腐敗した職場であった。その描写を引用してみる。
このオフィスははなはだしく職員過剰でとくに主任検査官補佐が過剰だった。エン トウィッスル兵器工場では、全体を通じて、権限の委任がひろくおこなわれていたが、 このオフィスでは、それが口先だけの実行さえされていなかった。スティルマンは、 生産ラインを視察したためしがなく、ラインでどんなことがおこなわれているかを実 際に知っているライン主任検査員のほうでも、彼を訪問したためしがなかった。彼ら はスティルマンの補佐たちに報告し、補佐がそれをスティルマンに報告して、スティ ルマンのほうは大いばりで決定をくだすのだった。(小西宏訳)
絵にかいたような腐敗職場だが、レンズマンシリーズの悪役としては異色のものであろう。ここでの敵は目に見える相手ではなく、大企業病であり官僚体質なのだ。
もしスティルマン前部長なりブラック社長なりが、明確な悪意や、自己の不正な利益のために不良爆弾を生産していたならば、一応は活劇ものになったであろう。しかし、そうではないのだ。
このあと、キニスンは不良撃針の生産を止めるため、クビをかけて社長と直談判をし、みごとにクビになる。実は、キニスンの検査部門への転出人事自体が「会社の意向」というやつだったのだ。この展開はスペース・オペラを期待した?読者をかなり裏切るものであろう。
僕が、はじめに「一九四一年」を読んだときは、なにもわからなかった。なによりも、悪人?たちが何を考えているのかわからなかった。彼らは別に不良製品をかくさなくても損害をうけないはずなのだ。撃針は別の工場の製品なのだから。
しかし社会人ともなると、こうしたことが日常茶飯事であることがわかってくる。しばしば工場は、問題のある製品を知っていながら平気で出荷し、顧客も平気で受領する。互いの担当者同士は原因を百も知りつつも、問題は数多い○○補佐の間をぐるぐるまわるうちに、うにむやになってしまう。
わからない人のために説明するが、こうした不良が発覚したとしても、次の新製品の次期まで隠し、それまでは、なにくわぬ顔をきめこむのがかしこいとされている。すぐに手を打つと、計画は乱れるし、誰かの面子はつぶれるし、で良いことはない。
むろん工場側だけではなく、顧客のほうも同様である。不良品をつかまされる顧客は、気がつけば、すぐに文句をいうものと若いものは考えているかもしれないが、世の中は、そんなものでもない。顧客にも顧客の事情がある。その工場と長いつきあいであったとき、製品に不良があるということは、その顧客側の担当者の責任が問われかねない。たとえ、そんな事情ではなくとも、すくなくとも計画が大幅に狂うことは間違いない。そのセクションだけですむことならばよいが、他のセクションまで影響がある場合には、小さな不良を隠しとおしたほうが、うまく行くことがいくらでもあるのだ。無論、しわ寄せはすべて最終ユーザーにいくものである。
しかも、キニスン博士の場合では、ユーザーは軍のわけだが、軍は最終ユーザーではない。最終ユーザーは前線の兵士である。しかも最終ユーザーが地雷の欠陥に気がついたときには、まず死んでいるだろうから、問題は生じないわけだ。会社がうにむやにしたがるのも無理はない。それどころか、軍需工場だから軍から安全士官が出張しているのだが、この士官自身がうにむやにしようとしているのだ。
この作品の背景は、E・E・スミス自身の経歴をみるとわかるような気になる。経歴といっても、文庫の解説しかみていないのだが、レンズマンの本など、読者はみんな無くしているだろうから要点を写させていただくことにする。
彼はアイダホ大学で工業化学を専攻、百六十単位の試験にすべてAをとる成績で卒業した。卒業後、ワシントンの合衆国標準局に勤めた。
その後、ミシガン州にあるF・W・ストック&サン会社の技師長に就任し、ここで「ドーナッツ・ミックス・パウダー」の開発と研究をする。そして一九三六年には、同じミシガン州のダウン・ドーナッツ会社にうつり、給与のほかに、利潤の分配も受けることとなった。しかし、この会社は赤字続きだったので、そこから脱却するため、スミスは当初の一年間は休みも返上して働き、新しい機械の考案や設計に没頭したという。
いつまでダウン・ドーナッツ社にいたのかは知らないが、スカイラークシリーズはF・W・ストック&サン会社時代に、そしてレンズマンシリーズはダウン・ドーナッツ会社時代に執筆されている。そして一九四一年には、五一歳のスミス博士はダウン・ドーナッツ会社にいたと思われる。
スミスの体験は軍事工場ではないし、火薬の経験でもなく、なんとドーナッツ・ミックス・パウダー工場だった。
(いまの感覚では火薬の技術者は、あまり重要なイメージではないが、核も電子兵器もなかった戦前では、火薬こそ国家の盛衰を決定する最重要産業であった。現代では、火薬の質で勝敗が決することはあまりないと思うが、第二次世界大戦前はそれこそが決定的要素だった。)
ミシコタの兵器工場ではなく、ミシガンの「ドーナッツ・ミックス・パウダー」工場の経験こそが「一九四一年」の元となった体験なのだろう。それが、どのようなものだったか。キニスン博士の次の発言が手掛かりになりそうである。
「なにをつくっても売れるものだから、技術陣を手放してしまったばかな会社のことをよく耳にする−だか、そんなことは、長くはつづかん。ところで、わしはそういう会社のために働いてきたことに気づかなかった。」
このばかな会社とは彼が標準局を辞めて就職したF・W・ストック&サン会社のことのようにも思える。そして「シベリア」のモデルになったのが、その後に勤務したダウン・ドーナッツ社であったのかどうか。ただ推測するしかない。それを知るものは、ただドーナッツ・ミックス・パウダーだけであろう。
考えてみると、この発言は、個人的な愚痴である。そして、この愚痴はSF史上にあってけして消えない古典SFのなかに組み込まれ、スミスを追い出した(のかどうかは知らないが)会社が消えてなくなったずっと後まで残ることになるだろう。
彼が、後の会社で幸福な人生を送ったかどうか、知らない。しかし、徹底的に能天気なスカイラークシリーズに比べて、レンズマンシリーズにはすこしだが暗い雰囲気がある。それは、F・W・ストック&サン会社から退社を余儀なくされた(のかどうか)体験を反映していることなのだろうか。
そして晩年の作『スカイラーク対ディケーヌ』(この第4作は、他のスカイラークの執筆から三十年もたってから書かれた。)の最後の場面では、かっては大悪人であったマッドサイエンティスト、ディケーヌ博士を主人公にすえたうえで、こう語らせている。
「地球は、たとい、救い得るにしても、救うだけの価値はないのだ。救い得るかどうかもぼくは疑っているがね。」 (中村能三訳)