TDSF叢書2

マッドサイエンティスト入門

−その傾向と対策−

藤倉 珊 著

TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行

連載第四回



第四章 マッドサイエンティストはなぜ美女を解剖するのか

 このサブタイトルに疑問をもつ人もいるかもしれない。マッドサイエンティストが必ずしも美女を解剖するとは限らないのではないか。いや、第一章でも書いたように、美女を解剖するのは、マッドサイエンティストではなく、ただの変態ではないか。そう考えることは当然であろう。

 しかし、堀晃氏が『マッド・サイエンス入門』のなかで「マッドサイエンティストの三大研究テーマ」として、美女の解剖、永久機関、錬金術をあげているくらいで、美女の解剖はマッドサイエンティストの本質にかかわる重要なテーマを秘めているのだ。
 もちろん「美女の解剖」といっても、マッドサイエンティストが実際に美女を解剖するわけではない。
 「美女の解剖」という伝説は凡人たちが作り出した伝説である。つまり、マッドサイエンティストが実際に「美女の解剖」を好むわけではなく、凡人の側がマッドサイエンティストはそういうことをするものだと思い込んでいるということである。
 しかし、なぜ、このような伝説が生じているのか。この問題は意外と根がふかい。
 結論から書いてしまうと、この伝説は、マッドサイエンティストと凡人の倫理感との本質的な差から生じている。
 多くの場合、マッドサイエンティストは凡人から忌み嫌われている。凡人はマッドサイエンティストの崇高な理念を理解することは出来ないが、自分たちと倫理感がちがうことを本能的に嗅ぎつけ、迫害するのである。
 マッドサイエンティストの倫理が凡人と異なることはいうまでもない。
 神を目指すマッドサイエンティストとしては、おのずから凡人とは異なる倫理に沿って行動することが要求される。さもなければ人体改造もままならない。
 すなわちマッドサイエンティストは、不老不死に先立って、まず凡人の倫理感から訣別しなければならない。
 この条件は、当然ながら全宇宙征服、不老不死の獲得に優先する。実は、先程引用した堀晃氏によるマッドサイエンティストの三大テーマとは、この三つの過程を意味していたのだ。一見、とぼけているような筆致だが、その裏にひそむ指摘のするどさには感嘆するしかない。

 すなわち、永久機関とは全宇宙の征服を意味する。永久機関の完成と全宇宙の征服が等価であることは第2章で明らかにしたつもりだ。
 錬金術とは、不老不死の追求を意味する。歴史的に見ても錬金術とは不老不死の手段であったことを第3章で述べた。
 そして、「美女の解剖」とは「凡人倫理と訣別」を凡人の側からみた場合の象徴的表現であったのだ。
 そして、この三大テーマは、この順序で遂行されなければならない。すなわち、

  神になるためには、まず全宇宙を征服する必要があり、
     全宇宙を征服するためには、まず不老不死を獲得する必要があり、
     不老不死を獲得するためには、まず「美女を解剖」する必要がある。

 と、いうことなのだ。
 もちろん、実際にはマッドサイエンティストは美女の解剖などはしない。する意味が無いからである。もし、したとすれば、よほど特殊な事情がある場合のみで、それならば凡人でも一般科学者でもおなじこと、マッドサイエンティストだけが非難される筋合いはない。
 ならば、なぜ凡人倫理との訣別を象徴するものとして「美女の解剖」というイメージが浸透しているのか。凡人倫理に反するという意味だけならば「大量殺人」や「無差別破壊」でもかまわないはずだし、より悪いとさえ思える。
 ここで、凡人には日常的な発想、つまり人一人程度しか思いつけないのだという意見もあろうが、それは間違っている。それならば、「人体実験」というキーワードで充分なはずだし、むしろマッドサイエンティストの業務から考えて、より適切であるとさえ言える。
 では解剖されるのが、無抵抗な女性(最近はそうでもないが)であることに意味があるのか。というと、これまた間違っている。
 その証拠に「幼女の解剖」をするとは言われていないからである。マッドサイエンティストは幼女殺人は、ほとんどしない。それどころか、マッドサイエンティストはしばしば少女を溺愛し、結果として「マッドサイエンティストとその美しい娘」というパターンができているほどである。

 実はキーワードは美女の「美」の部分にある。「美女の解剖」の示すメッセージは、「殺人」ではなくて「美の否定」なのだ。なぜ、凡人がここにこだわるかというと「美」こそ凡人倫理の最後の拠り所であるからなのだ。
 面倒なことを抜かすと、結局、凡人の倫理概念の基礎は「真・善・美」である。
 しかし、凡人は、このなかで「真」についてはマッドサイエンティストと競合することを早々にあきらめる。当然ながら「真」の追求こそ、科学の本領であり、マッドサイエンティストの専門とさえいえるのだ。凡人のなかには、宗教のなかに逃げ込み「真とは心の問題である」などと主張して自己欺瞞にふけるものも多いが、所詮はむなしい抵抗である。なぜなら、心の問題であってさえ、真実とは、多くは残酷なものだからだ。
 「善」については、今日ではもはや意味を失っている。そして凡人自身がそれを認めざるをえないほどの状況にある。
 なにが善かという問題に、もはや答えが出せないからである。昔は国のために死ね、神のために死ね、といわれて、その言葉に従うことが善であった。もちろん、凡人に対してだけ意味のある論理である。マッドサイエンティストや一般科学者、あるいは商人は、けっして、こんな善など信じなかった。もっとも、信じるふりをすることで莫大な利益を生む場合は、しばしばあり、宗教団体や軍事国家のトップが実は商売人であったことはたいへんに多い。
 しかし、世の中は、かなり複雑怪奇になり、凡人にも莫大な情報が流れ込むようになった。このような状況で、昔風の「善」とは、結局のところすべて「独善」であるということが、愚かな凡人もわかりかけてきたようである。
 こうしたなかにあって、「美」は凡人倫理の最後の牙城となっているのだ。別にマッドサイエンティストにとって、「美」はとくにジャマになるわけでもないし、攻撃したり、否定したりする意味はないのだが、凡人のイメージ中のマッドサイエンティストは、美の否定者でなくてはならないのだ。
 さらに、マッドサイエンティストの外見自身も醜いことになっていることが多い。その顕著な例は『ファンタスティック・フォー』に登場するドクター・ドゥームであろう。これほど、極端でなくとも凡人によるイメージでは、マッドサイエンティストは一般に芸術への理解がなく、たとえあっても好むものは前衛芸術と決まっている。
 これでマッドサイエンティストがなぜ「美女を解剖」すると言われるのかはわかった。だが、凡人倫理に変わるマッドサイエンティスト倫理とはどのようなものか考察しなければ、この問題に答えたことにならない。
 次に、マッドサイエンティストの倫理とはなにか。それは凡人倫理とどう異なるかを考える。

 てっとり早くいうと、凡人の倫理は、当初は種の保存、後には社会秩序の維持ということに基礎をおいている。殺人や人体実験が禁止されるのは種の保存、孝行や勤勉が奨励されるのは社会秩序の維持のためというわけだ。
 しかし、この論理は現代になって相当あやふやになってきた。
 ホモや堕胎は容認されるようになってきたし、それどころか人口増加によって地球自体が危機に陥ることが確実な今は、逆に賞賛されるべきかもしれない。
 勤勉はもっとも強力な凡人倫理だが、今や日本は勤勉のために外交上の危機に陥っている。
こうしたことは凡人倫理が始めから矛盾をはらんでいたことが表面化したにすぎない。

では、なにが間違っていたのか。それは凡人倫理は本質的に自己再生産論理であることである。
社会秩序の維持ということは、つまり現在の社会秩序の維持ということである。種の保存も同様、所詮は現在のままの姿を永遠に維持したいということに他ならない。
 歴史的にみて、生物も社会も進化は必然であり、これに反する凡人倫理は、始めから破綻していたのだ。これに対して、マッドサイエンティストは自ら進化を旨とし、自己革新を基準とした論理にしたがうものである。
 ここで、誤解があるといけないが、マッドサイエンティストは共産主義者ではない。共産主義者は、あるべき社会の理想像をまず構成し、その後でそれを実現しようとする。(さらに実現して不備なところがあったら、人間の方を社会に合わせようとする。)これでは所詮、凡人と変わるところはない。実際に凡人であるからあたりまえだ。
 マッドサイエンティストが共産主義者と異なるのは、マッドサイエンティスト自身にも目指す社会がどんなものであるか、まったくわかっていないということである。あたりまえである。それがわかったら神がわかることと同じではないか。

マッドサイエンティストにとって理想の社会はない。だからマッドサイエンティストなのだ。

一方、理想の生物像として一応、不老不死ということはあるが、これも中間目標にすぎない。もしマッドサイエンティストが不老不死の体を得たとしても、さらに理想の体を追い求めて、再び改造手術を手がけるであろう。
 マッドサイエンティストは永遠に…神になるまで進化を求めてやまないのである。これがマッドサイエンティストの倫理の基礎である。

 さて、マッドサイエンティストの倫理的基礎は進化・改革を指向するものだが、共産主義者と異なり、固定した理想形態があるわけではない。常に途切れぬ変革の連続こそマッドサイエンティストの望むところである。

 マッドサイエンティストは、本質的に変化をのぞむ。

 この場合、たとえ変化が自己に不利にはたらく公算が強くても、なおマッドサイエンティストは変化を・・・進化を指向するのである。なぜなら、自ら変化を断ってしまっては神になる可能性を(それがいかに少なくとも)否定することになる。マッドサイエンティストがマッドサイエンティストのままで終わってしまっては、凡人の目にどう映ろうとも何の意味もない。ゼロである。
 しかし自らが神になれなくとも、いつか後の世代のものが、なんらかの形で神になれる可能性があるとすれば、これは救いである。自らが神になることに比べれば、だいぶ劣るが、だれかが神になる可能性をもつとすれば、マッドサイエンティストにとっゼロよりは価値がある。(この意味でマッドサイエンティストは決して独善的ではない。しばしば、死期を悟ったマッドサイエンティストは自らの科学成果を後継者に残す。どうしようもないときでも、後世にメッセージを残そうとはするもので、スーパーヒーローに追い詰められたマッドサイエンティストはたいてい急に饒舌になる。)

 マッドサイエンティストにとっては、(たとえ他人であっても)神になる可能性が最大限になるように行動することが、すなわち善である。
 よく凡人の理想は「最大多数の最大幸福」などといわれる。これを模していえばマッドサイエンティストの理想は、「最大多数の最大可能性」なのである。
 この目標のためには、自己再生産過程は本質的に悪である。可能性が一つしか無いからだ。
 必然的に、マッドサイエンティストが好むものは、本質的な混乱である。なぜならば、カオス状態が、もっとも情報が多い、すなわち最大の可能性をもつ状態であることが熱力学的に明らかだからである。

マッドサイエンティストは本質的に混乱を好む。

 これがマッドサイエンティストの倫理である。それは社会のパニックであろうと、学会の論争であろうと、子供の喧嘩であろうと、一切かまわない。
 波風が立たないところに好んで嵐をおこし、よその高校に勝手に入って混乱を煽動し、デマを撒き散らしては一人ほくそ笑み、警察に匿名の手紙を出しまくる。
 これ、すべて混乱を招く手段であり、可能性の追求なのである。
 よく、マッドサイエンティストの本性は破壊ではないかと誤解している人がいる。しかし破壊は混乱を生じさせる手段であって、目的ではない。混乱が生じなければ破壊はけっして好ましいことではない。
 しかし、しばしば破壊は混乱をもたらす最も効果的な手段である。効果があるとすれば凡人の倫理によって手段を控えることはけっしてない。そのため多くのマッドサイエンティストは兵器の開発を目指すことが多い。
 さらに、爆発こそ混乱を誘発する最善の手段であろう。兵器というのは、結局のところ、敵側にのみ混乱を生じるように作られるものなのである。
 しかし、爆発はちがう。使いようにもよるが、強力な爆発は、しばしば味方にも混乱をもたらすのだ。とくに、すばらしいものは「自爆装置」というものである。これは、その存在自体で敵味方を問わず、混乱におとしいれるというもので、マッドサイエンティストの必需品とまで言われている。
 今回も成原博士の言葉を引用して終えよう。

「わたしは爆発するものが好きなんだ。自爆装置は男のロマンだぞ。」
                     −成原成行−(究極超人あ〜る 第6巻)


マッドサイエンティスト入門 第五章に続く


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