TDSF叢書2

マッドサイエンティスト入門

−その傾向と対策−

藤倉 珊 著

TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行

連載第五回



第五章 マッドサイエンティストの真の敵とはなにか

 これまでの章で、マッドサイエンティストの目的、方法、指針をとりあげてきた。しかし、マッドサイエンティストを取り巻く「現実」はあまりにも厳しい。世界は愚劣な凡人によって支配され、狡猾な商売人が暗躍し、学問の殿堂さえも怠惰な俗物に支配されている現在、マッドサイエンティストに何ができるというのだろうか。
 本来ならばマッドサイエンティストは凡人を従えるものなのだが、現実はキビしく、逆に凡人にやむなく従っているマッドサイエンティストの方が多い。凡人など、倒してしまえば良いように思えるかもしれないが、そう簡単にはいかない。
 凡人は愚かだが、その半面、実にしぶとい。
 凡人と言う奴は、一人いれば、その三十倍もいて、その生命力ときたら、放射能の雨をいくら降らしても、有害食品をいくら食わせても一向に死なないどころか、逆に平均寿命がどんどん伸びているくらいのバケモノで、マッドサイエンティストが生まれるはるか前から地球を占領していたという位のシロモノである。
 だいたい、この世は凡人向けに作られているのであり、通勤電車の混雑も、殺人的な残業量も、ウサギよりも惨めな住居も、凡人にしてみれば、お気に入りなのである。
 繊細で、頭脳労働を旨とするマッドサイエンティストにとっては、まったく耐えがたい環境に生きられる凡人とは、まったく途方もない生命体である。もちろん、これは生命力だけに限ってみただけの話であり、マッドサイエンティストより凡人がすぐれているわけではないのは、ゴキブリが人間より高度とは言えないことと同じである。

 さて、このような凡人による凡人のための凡人の世の中ではマッドサイエンティストが生きることは実につらい。ある意味では、宇宙の征服よりも、困難な仕事である。生きるためには、方便といえども凡人社会に適応せねばならず、適応するということはマッドサイエンティストでなくなることなのだから。
 この、現実との対応という、あまりにもキビしい試練のため、大部分のマッドサイエンティストは、ついには精神が崩壊し、私は神だと、わめき散らして、精神病院に収容されてしまう。
 まったく、学会を追放されたあげく、復讐のためにアンドロイドを作り高校に入学させてしまうマッドサイエンティストの心も理解できてくるではないか。

 しかし、いくら倫理感の違いといえども、この世はあまりにもマッドサイエンティストに対してきびしすぎるように思われる。第一回で論じた科学者や商売人は本来はマッドサイエンティストと敵対する存在ではない。凡人とて、普通ならマッドサイエンティストに対してことさらに攻撃することはないはずである。
 それが、世の中はそうでもない、それどころか現代社会−すくなくとも、その表側−はマッドサイエンティストにとって、ほんとど生存不可能なまでにきびしいものである。
 なぜ、このようになっているのか。それは凡人の社会システムにあると思える。では、なぜ本来、無害な凡人が、集団となるとマッドサイエンティストの敵となるのか。この問題について、さらに考えてみよう。

 凡人のシステムとは、マッドサイエンティストの立場からみて、本質的に自己再生産的であり不毛である。
 それを象徴しているものが「役人」である。
 おお、役人。この世に役人ほど、マッドサイエンティストの対極に位置するものがあるだろうか。
 役人、凡人のなかにあってさえ、ひときわ軽蔑され、忌み嫌われる存在。
 凡人のシステムの象徴であり、その最大の構成者、そして世の進歩と向上にたいして真向から抵抗する存在である。
 前に、マッドサイエンティストの特徴として、貪欲さと未来指向性を挙げたとおもったが、役人は無気力さと保守指向の塊であるといえる。また、その生産性のなさ。
 創造性が皆無なのは、しかたがないとしても、生産性が全くないのは、凡人からみてでさえ、犯罪的といえよう。もちろん、私もモノを作らなくては生産ではないとはいわない。それどころか、流通や管理の役割に大きな理解を持っているつもりだ。しかし、役人という人種の非能率さは、まったく次元を異にしたものだ。
 しかも、その活動の大部分は彼ら自身のシステムの維持のために費やされているというからたまらない。まったく役人がいないほうが世の中がどれほど良くなるかわからないほどだ。
 ところが、彼らは、実際に巨大な権力を持ち、実質的にこの世を支配しているといえるのだ。もちろん個々の木端役人には、ほとんど力はないが、彼ら全体を一つの生命体としてみたときこの世を支配している強大な権力者とみなすことができる。

 その無個性さと社会的分業を見た時、それはハチやアリの集団とよく似ている。アリ一匹にはなんの力も意志もないが、巣をつくる集団としてみると見事な分業体制をとり、大きな力と種の拡大にたいする強力な意志をもつ。これは、役人と官僚機構の関係とまったく同じである。
 すなわち、役人は、もはや人ではない。ガイア仮説を模していえば、個々の役人は細胞にすぎず、社会集団としての官僚機構が一個の生物なのである。たとえSFファンの役人がいたとしても、官僚機構のなかでは、なんの意味ももたない。役人は規則と前例に従っていればよく、また従わなければ機構から排除されるのだ。
 その生物の目的は、自己の維持。それしかない。官僚機構というものは、本質的に自己保存しか考えないものだ。当然、その構成員である役人の一人一人にも「あたらしいものを嫌う」という発想が、骨の髄までしみこんでいる。これが、民間企業ならば、画期的な新発明があった場合これを利用してもうけてやろう、などと考えることもあるが、役人はすぐに理屈をつけて闇に葬ることを考える。
 役人は規則と前例なしでは生きられない。そのため世の中を変えてしまう可能性のあるものは本能的に忌避し、潰そうとするのだ。
 一方、マッドサイエンティストは、この世の中を変化させることが、目的とさえ言えるのだ。両者は本質的に対立する。

  マッドサイエンティストの天敵は役人である。

 よく、マッドサイエンティストの天敵はスーパーヒーローであると言われるが、それは間違っている。
 スーパーヒーロー(英雄)は、むろん凡人ではあるが、本質的な意味ではマッドサイエンティストと対立する存在ではない。マッドサイエンティストは凡人に対して、特に悪意をもつわけではなく(好意ももたないが)、場合によっては大きく貢献することもある。だいたいが、多くの物語中でも、スーパーヒーローの誕生自体がマッドサイエンティストのおかげなのだ。
 しかし役人となると話は違う。役人はマッドサイエンティストと本質的に対立しているのだ。たとえマッドサイエンティストが人類に、すばらしい貢献をした場合ですら反対するのは役人である。なぜなら、官僚機構に変化をもたらすからである。
 ここで、前章であつかったマッドサイエンティストの倫理を思い出して欲しい。マッドサイエンティストの理想は、最大限の発展可能性を追求することであった。
 しかし官僚機構の理想は、最大限の自己再生産であり、世界を画一化し、すべての発展可能性を抹殺して、自己を安定化することである。
 そして、その安定指向性は組織が大きくなるほど顕著になる。特にマッドサイエンティストを苦しめるものは、国家権力である。
 国家権力、これこそはマッドサイエンティストを苦しめる最大の敵である。すべてのマッドサイエンティストは、凡人作の物語中であろうとなかろうと、ことごとく官僚機構、もしくは国家権力と対立してきた。
 警察、それは、ちょっと変わった実験をすれば、たちまち嗅ぎつけマッドサイエンティストを餌食にしようと集まって来る番犬である。
 大学、それはマッドサイエンティストを誘い出し、途方もない事務仕事と複雑怪奇な予算制度で痴呆化させるための罠である。
 特許庁、それは一見、科学者の味方のふりをするが、マッドサイエンティストの霊感を凡人の利益に供するための機関である。
 そして、最悪の役所、文部省は創造性と独創を奪い取り全人類の凡人化を積極的に推進している。
 たとえ、マッドサイエンティスト自身が、国家公務員になろうと、この情勢は変わりようがない。組織の意志(あるいは無意識)は個々の構成員の意志と全く無関係である。たとえピラミッドの頂点にいるものの意志であってさえも。
 では、個々の構成員はただの凡人である官僚機構がなぜ、このような力と意志をもてるのか。これを考えると、ある恐ろしい結論に達する。
 実は「官僚機構」とは、人類がさらに進化した一つの形態なのである。まだ、地球の官僚機構は比較的規模が小さいから「組織の意志」がまためだだないが、いずれ、その構成員が脳のニューロン数をこえたころ、そのことは明確になるであろう。
 しかし、これはマッドサイエンティストが目指す、進化とは、根本的に異なる。

 じつは、人類の進化の形態には、二種類あったのである。一つは個が進化を続けるマッドサイエンティストの道、もうひとつは全体が個をのみこむ官僚機構の道である。
 この二つの道は、アーサー・C・クラークが『幼年期の終り』で示した二つの進化の形、オーバーロードとオーバーマインドの関係とに似ている。無論、個が個をまっとうするオーバーロードこそがマッドサイエンティストの姿なのであり、全人類の無個性な集団精神体オーバーマインドが究極の官僚機構の姿である。
 『幼年期の終り』ではマッドサイエンティストは進化の可能性を否定され、官僚機構が進化するという構成をとったために、人類の進化の物語であるにもかかわらず、悲劇的様相を呈している。むろんクラークの真意はそこにあったのである。すなわち『幼年期の終り』はマッドサイエンティストに対する警告の書であったのだ。オーバーロードの姿が悪魔である理由も、これで明快であろう。
 ここまでくれば、なぜマッドサイエンティストと官僚機構が本質的に対立するのかわかったと思う。すなわち、人類進化の自然選択過程の真っただ中にある、食うか食われるかの戦いなのである。人類の後継者を争うハルマゲドンは、誰も予想しえない形でとっくの昔に始まっていた。それはマッドサイエンティスト対官僚機構の戦いだったのだ。
 もし官僚機構が勝利すれば、人類から狂気は取り去られ、同時に個の成長可能性も失われるであろう。そして、そこから生まれる社会は、ハチ・アリ社会と似た方向にすすむであろう。
 そして今やマッドサイエンティストは古き良き時代の遺物と化した感があり、世は巨大化した官僚機構が全盛期を迎えているかのごとくである。
 このハルマゲドンは、やはり官僚機構の勝利に終わるのであろうか。いや、すでに官僚機構のためにマッドサイエンティストは絶滅させられたのではなかろうか。
いやいや、それはあまりにも空しい見方である。『幼年期の終り』の三年後にクラークは『都市と星』を著し、完全な自己再生産世界におけるマッドサイエンティストの復活を描いた。
 『幼年期の終り』がマッドサイエンティストへの警告の書ならば、『都市と星』はマッドサイエンティストの復活の書といえるだろう。そう、SFのなかでもマッドサイエンティストは死に絶えたわけではないのである。
では今、官僚機構全盛の世でマッドサイエンティストはどこにいるのか。次回はこの問題について考えてみる。

 「と、盛り上がったところで、ここはやはり「つづく」ではなかろーか」
                         −成原成行− (究極超人あ〜る3巻)



マッドサイエンティスト入門 第六章に続く


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