藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行
連載第三回
前回は、全宇宙の征服について、その可能性を考えてきたが、そのためには、まずマッドサイエンティストは不老不死を獲得していなければならない。少なくとも、この宇宙と同じ寿命をもたねば、実質的に征服したとはいえない。そもそも神が不死であることは当然ではないか。
しかし、それに比べて人間の寿命はあまりにも短い。凡人には充分な長さであるかも知れないが、マッドサイエンティストにとっては、あまりにも不十分である。
現実には、マッドサイエンティストも凡人同様に食わねばならず、眠らねばならず、排泄せねばならず、あげくのはてに死ななければならないのだ。これが、いかに愚かなことであるか、あたりまえすぎて、かえって凡人には理解されないようである。
その肉体の制限という、下らぬ条件によってマッドサイエンティストの有意義な活動が著しく制限されることは、それ自体が罪悪であり、克服されなければならない。そして、それは全宇宙の征服にたいして優先しておこなわれなければならない。
古来、多くの物語の中で、まずマッドサイエンティストが人体改造に乗り出し、不老不死を第一のテーマにしたのも当然のことである。
さて不老不死の方法であるが「全宇宙の征服」に比べれば、重大な困難はとくになく、本格的に肉体(脳を含む)を改造すれば、意外なほど近未来に、かなり不老不死に近い技術が実現できるのではないかと思われる。
よく考えられるアイデアに、人間の脳の内容をソフトウェアのようにダウンロードする方式がある。これが簡単にできるという人を楽観論者、またはラッカー論者という。マッドサイエンティストは当然ながら、たいてい楽観論者である。なにしろ現に人間の脳というけっして高級とは思えない物体が、ちゃんと精神という機能をはたしているのだから、将来、純粋に機械的な構成で人間の心をつくりだかすことが不可能な理由はない。
もちろん数十万年も生きるとなると、既存の脳と同じソフトウェアでは容量的に不足をきたす可能性もあるが、それには充分な開発期間があるだろう。
また、そうした機械に置き換える方式でなくとも千年程度の寿命延長ならば、現在の肉体に近い形でなんとかなるかもしれない。別に天然の肉体にこだわる理由は、その不便さを考えると、なにもないように思われるが。
むしろ、本質的な障害は不老不死になって、生きることが、ある意味でよりきびしくなることかもしれない。人間はこれまで有限の、それもたった五十年程度の、寿命に慣れすぎていた。そのため、かなり無責任な生き方が許されてきた。このままでは不老不死どころか、寿命が三百年になっただけでも、逆に負担を感じる人がいるであろう。いや本人だけならよいが、現代社会人のような無責任な生き方を三百年も続けられたら、まわりのほうが迷惑である。このあたりは少し真剣に考えてみるべきであろう。
ここで、少し趣を変えて、仙人の話をしてみたい。こう書くと、驚かれる方もいるかと思う。
たしかに仙人は不老不死であるが、そのイメージはマッドサイエンティストとは正反対と一般に思われている。仙人は無為無欲の極致、マッドサイエンティストは欲望と独善の極致であるはずではないか。
しかし、結論から言うと、このイメージは間違っている。あえて言うと、
仙人は古代中国におけるマッドサイエンティストである。
これを理解するためには、まず日本人が持つ仙人のイメージを改める必要がある。実は日本人のもつ仙人のイメージと中国人のもつ仙人の概念は、たいへんに異なる。
実例で示そう。芥川の『杜子春』は日本人作家による仙人が登場する物語として、もっとも有名なものの一つであり、日本人のもつ仙人のイメージの代表的なものと言ってもよいだろう。
この作品は結局のところ、凡人は凡人らしく生きろといっているわけである。しかし、この話の元は中国にあり、そこに登場する仙人は芥川のものとは、根本的に異なる。
原作では、思わず声を上げてしまった杜子春に対し、仙人は「バカヤロー、てめーが声を上げたからオレの実験が失敗しちまったじゃないか。この凡人め!仙薬などやれん。とっとと消え失せろ。」というような意味のことを言って、弟子にしかけた杜子春を追い出してしまうのだ。
(もう少し言葉は丁寧だったかもしれないが、まあこのようなものである。さらに深読みするとこのとき杜子春が本当に黙っていれば仙人が仙薬をくれたかどうか疑問で、それどころか杜子春自身を薬の材料にしてしまおうとたくらんでいたのではないかと思われる。もちろんだまされる方が悪いのである。)
原典では、仙人になるためには、親子の情など凡人の感情は超越しなければならないといっている。これが中国の、つまりオリジナルの仙人というものなのであろう。
さらに中国の仙人は一般に老人ではない。不老不死の仙人は当然、不老であり、老いていると考える日本の方が不自然である。中国では人間の理想的な年代を約三十歳としており、仙人の肉体年齢は、そこでとまるのである。
さらに、仙人はけっして無欲であるわけでもない。俗世の出世こそ望みはしないが、それは凡人の階級だからである。仙人には仙界の階級があり、そこでは出世をめざすし、また錬金術も心得るし、実は性欲もかなり強い。さらに極めて強い名誉欲がある。
たとえば『封神演義』などを見ると、そこに登場する仙人の思考形態は、日本人の考える仙人と、まったく異なり、かなりマッドサイエンティストに近いことがわかるとおもう。
このような思想はいつごろ成立したのか。ますます話がそれるが、ここで神仙思想の成り立ちから考えてみる。
古代においては仙人は僊人と書いた。僊という字は遷に近く、その意味するところはミュータントに近い。実際に羽化登仙という言葉のとおり、古代の仙人は羽が生えて飛んでいくのである。
さらに修行してなるものではなく、蓬莱山などに住んでいる伝説上の神人のことであった。つまり天狗のような人外の魔物のイメージだ。どうも、秦の始皇帝が徐福にさがさせた蓬莱山の僊人とは、このようなものだったらしい。始皇帝は僊人になりたかったのではなく、不老不死の薬が欲しかったのだ。つまり魔物にお願いをして不老不死にしてもらうというわけで、凡人が神様にお願いしているのと変わらない。これは無論、マッドサイエンティストではない。
時代はずっと下って、西暦三百年ごろ、中国は漢帝国が滅亡したあとの南北朝時代、葛洪という人がいて『抱朴子』という本を書いた。今日のいわゆる仙人の概念ができあがったのは、この『抱朴子』からと言われる。
『抱朴子』が革命的だったのはなにか。これは東洋文庫の解説のまるうつしになるが、仙人学んで到るべし、という思想である。つまり、始皇帝を含む、それまでの仙人思想は、自分でなろうと努力するのではなく、既存の仙人に薬をもらうことばかりを考えていた。しかし、この『抱朴子』では、人が自らの意思と努力で不老不死を得ることができると説いたのである。
これはマッドサイエンティストの思想といってもよいだろう。もちろん凡人が努力してなれるものとはいわない。仙人になるには、素質と正しい仙人の知識とつよい意志の力が必要ととく。
『抱朴子』は読むと、およそ当時として最大限に科学的,客観的に説いていると思われる。また実際に、多くの人々の心を捉え、事実上タオイズムの教祖となった。
彼が、どんなふうに説いているか,ちょっと見てみよう。
まず、第一に説くのは仙人の実在である。彼は人間は始めから死ぬべきものだという論にたいして、こう反論する。
もし物の生まれつきがすべて一定不変というのなら、雉が大川に入って大蛤になり、雀が海に入って蛤となり、地虫に翼が生え、お玉杓子がピョンピョンとぶようになり、ざりがにが蛤に変わり、〓苓(植物名?)が蛆に変わり、もぐらが晩春になると斑なし鶉に変わり、腐った草が晩夏に螢に変わり、鰐が虎に変わり、蛇が竜に変わるのはどうか?これもみな事実ではないか!
これが当時としては最大限に科学的だったらしい。冗談ではなく当時はこういうことが信じられていたのは確からしい。現在、認められているのはお玉杓子がピョンピョンとぶようになるということだけであるが。
そのころ日本は邪馬台国の時代なのだから、この時代に事実上、神を否定し、人がとってかわるという思想が生じたことを高く評価するべきだろう。
そして、さらに注目すべきことは、仙人になったあと、つまり不老不死社会のことにも考察を払っているのだ。仙人が実在しているという立場だったから、この問題は文字通りの現実問題だったのだ。たとえば、天に昇ってみても新参のものは古参の者の序列の下について、こき使われるからつまらない、などと論じたりもしているのである。
さて次は仙人になる具体的方法である。詳細は秘伝としていて、詳しいことはわからないが、一般的には、導引(呼吸法)、房中術、金丹の三つに要約できる。
もっとも面白そうなのは、もちろん房中術であるが、実際には、それほどおもしろくもないらしい。本来の房中術は気の温存を図るものだから当然である。後の世の俗人が売り込んだ房中術のなかには、すごいものもあるらしいが。
さて導引はぬかして、最も重要な金丹の話にいく。無論、具体的に詳しく作り方が書かれていることが、おもしろいのである。以下に要点だけ引用する。
第一の丹。なずけて丹華という。先に玄黄を作らねばならぬ。雄黄水(硫化砒素の溶液)・礬石水(明礬水)・戎塩(甘い岩塩)・鹵塩(苦い塩)・〓石(砒素を含む石) ・ 牡礪(カキ殻の粉末)・赤石脂(風化した石のやに)・滑石(ツルツルの石)・胡粉、各数十斤(一斤は二二〇グラム)を用いて六一泥(六種の材料を一両ずつ水でねったもの)をつくる。これを火にかけると、三十六日で完成する。これを飲めば、七日で仙人になれる。また玄膏(黒い油)でもってこの丹を丸め、猛火の上に置くと、たちまちにして黄金となる。(以下効能が続くが略)
第二の丹。神丹となずける。またの名を新符。これを飲めば、百日で仙人になれる。
第三の丹。名ずけて神丹という。一匙ずつ飲めば、百日で仙人になれる。
第四の丹。名ずけて還丹という。一匙ずつ百日間服用すれば仙人になれる。
第五の丹。餌丹と名ずける。これを服用すること三十日で仙人になれる。
第六の丹。錬丹と名ずける。これを十日間服用すれば仙人になれる。
第七の丹。柔丹と名ずける。一匙ずつ百日飲めば、仙人になれる。
第八の丹。伏丹と名ずける。これを飲めば、即日仙人になれる。
第九の丹。寒丹と名ずける。これを一匙ずつ服用すれば、百日で仙人になれる。
第二の丹からは効能書き、その他こまかいことを省略した。きりがないからである。これが『黄帝九鼎神丹法』にあるもので、この他に、太清神丹だの、五霊丹経だの、岷山丹法だの、務成子丹法だの、羨門子丹法だの、立成丹だの、赤松子丹法だの、石先生丹法だの、まだまだ二十くらい列挙してあり、それぞれの作り方と効能が詳しく記されていて、その分量と努力には驚嘆しないわけにはいかない。
しかし、これを飲んで仙人になれなかったらどうするのだろうか。実は、金丹を合成するためには、大きな禁忌があるのだ。その第一のものは「道を信じない俗人にこの薬を誹謗させてはならぬ。そうなると薬は決して完成しない」というもの。これでは追求のしようがないであろう。
これに似たことは現代でもあり、たとえば高温超電導や常温核融合のフィーバーのあとに「これは基礎研究ですから、いま成否を論じてもしかたありません」というのと同類と考えてよい。
ことばを変えると、古代中国には現代に近い科学的精神があったのである。
さて、金丹を見ていくと、字のごとく錬金術に関係していることがわかる。実際、丹法によっては、不老不死よりも金の合成に重点を置いているものもある。
仙人がなぜ金をもとめるのか。普通に考えると、これはおかしい。金を求めるのは商売人であるはずだから。表面的には「金丹の合成には黄金が必要である、しかし一般に道を求める人は貧乏だから黄金を合成するのである」と説明される。
しかし、僕が考えるところ、この説明は凡人むけのものだ。本当の目的は、商売人に取り入り協力させることにあるとみた。
ここに仙人、もしくは仙人志願者がマッドサイエンティストであるということの傍証が示される。すなわち第一章で記したようにマッドサイエンティストは商売人とコンビを組むのである。
仙人が商売人と組むのは日本的仙人観からすると不自然だが、マッドサイエンティストと考えると不思議でもなんでもない。俗人と言った場合、あてはまるのは凡人のことであり、商売人のことではないのだ。ここは重要な点である。
もちろん、商売人は不老不死を獲得できない。しかし金を得られれば商売人はそれでいいのである。
この構図は、西洋においても同様であった。無論、西洋の錬金術の本来の目的も不老不死にあり、錬金術師はマッドサイエンティストであった。そもそも(alchemy) の訳語を錬金術にしたのが日本人の間違いで、練丹術としたほうが適切とさえ思える。
錬金術は決して馬鹿にしたものではない。それどころか今日の科学のもとになったこと、錬金術師の精神はマッドサイエンティストに受け継がれていることを認めなければならない。
すこし本論から外れるが、日本は古代に中国から「儒教」を、近代に西洋から「科学」を輸入したが、どちらも表面しか学ばず、その奥に潜む「道教」も「錬金術」も取り込まなかった。だから真の意味での科学は日本に存在していないのである。日本は基礎研究ただのりと欧米から批判されるもとは、錬金術を輸入しなかったことに遠因がある。
さて結論を急ごう。千七百年前の仙人志願者から、我々は不老不死について、何を学べるだろうか。無論、技術的なことではない。しかし彼らは、今日の人間より、はるかに不老不死について深く考えてきた。とくに現代では不老不死を前提にした社会はSF作家ですらめったに考えることがないが、彼らはまさにそのようなことを千年以上にわたって考えてきたのだ。
さて、彼らの考えた不老不死社会のルールとはなんだろうか。もちろん、一言で語り尽くせるものではないが、基本的には次のようなものだ。
不老不死は凡人には知らせるな
明白でではないか。不老不死はそれを求めることを考えつく者だけが求めるものなのだ。わざわざ凡人に知恵をつけてまでして不老不死にしてやることはないのだ。
それどころか、凡人がいったん不老不死になれば、無責任な生き方で世の中をメチャクチャにすることは目に見えている。そして凡人に理をといてもしかたがない。
言葉をかえていえば不老不死を得るには資格があるということだ。それはマッドサイエンティストの資格と一致している。そして凡人の考える資格とは、まったく次元を異にしている。
凡人はたとえば勤勉だの、禁欲だの、正義だのを考える。おかしなことに日本人は仙人まで、このような基準で考えている。
しかし神仙伝など中国の仙人伝説をみると、そこに出てくる仙人の性格は、基本的に、マッドサイエンティストの哲学と一致している。すくなくとも僕にはそう思えてならない。
それはどのようなものか、無理に要約すれば、現世には無欲、未来指向には貪欲、というようなことだ。凡人は未来指向というと、長期の投資みたいなことを考えるが、真の未来指向とは、そんなものではない。どうゆうものかと言えば、一言では説明しがたいとしかいいようがないが。
そしてマッドサイエンティストの道もまた説明しがたいものなのだ。これについても不老不死に限らず、凡人にはなにも知らせるな、ということが基本になっていることは自明に近いと思われる。ただし商売人や科学者は別である。
仙人も、やはり商売人と科学者(というより儒教者だが)に対する姿勢は凡人に対する姿勢とはことなる。仙人が錬金術をいとなむことは前に述べたし、また儒教者とともに道を語ることは基本といってよい。第一章で述べたように、この両者とは共通項があるからである。
要するに、結論はマッドサイエンティストには不老不死を、商売人には黄金を、科学者には知識を、そして凡人にはなにもやるな、ということである。
これが不老不死への正しいアプローチである。
今回は、趣向を変えたつもりが、ずいぶんおかしくなってしまった。まあ、いいか。
「日本でもそら、二千年まえの蓮の実が花を咲かせたことがあるじゃないか。」
−成原成行−(究極超人あ〜る第9巻)