藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行
連載第二回
さて前回、「神になる方法」を解説するなどと大口をたたいてしまったが、もちろんそう簡単なことではない。
これが、なぜ「マンガ家になるには」とか「船乗りになるには」などと違うかというとマッドサイエンティスト自身にも「神とはなにか」がわかっていないことである。
この態度は不可解であると思う人もいるかもしれない。しかし世に「できる人間になるには」とか「ほんとうの幸せをつかむ法」などという本が存在する。このような本の著者に「ほんとうの幸せ」とはなにかわかっているとは限らない。なかには「画期的なアイデアの出し方」などというものさえあるのだ。
とすれば、「神になるには」という本があっても悪いわけはない。現に、そのような内容の本はいくつか存在している。
そのなかでも、つい最近でたフォワード博士の『SFはどこまで実現するか』などは、もっとも注目すべきものだろう。
フォワード博士は、前章で論じた意味においてマッドサイエンティストである。よく見てほしい。『SFはどこまで実現するか』二百九十ページに次のように書かれている。
わたしの意見では、科学が宇宙のふるまいの記述で何らかの役に立つのならば、
あらゆるものは最終的には科学用語で記述できるはずだ。極端な例だが、神は存
在するか、しないかのどちらかだ。わたしの科学と科学の働きに対する考え方か
ら言うと、もし神が存在しないのならば、彼が存在しないことを証明しようとす
るのは科学の仕事である。神が存在するのならば、科学の範囲内に現れなければ
ならず、まず彼の存在を証明し、それから実験的、観測的、理論的知識の集合体
を築き上げて、最終的に人類(もしくはそのとき人類が進化しているもの)が彼
を理解することを可能にするのが科学の仕事である。
これこそマッドサイエンティスト精神というべきものであろう。ほとんどの科学者は神の問題をタブーとして避けているが、当然のことで「科学者」ならは神を対象とはしない。それを行うのはただ「マッドサイエンティスト」のみなのである。
フォワード博士は、一見、自分の同僚がタブーをこえられないことを嘆いているようではあるが、実際には「科学者」人種と「マッドサイエンティスト」人種との差を痛感しているのであろう。
この本は、真の読者であるマッドサイエンティストに対するメッセージであり、マッドサイエンティストに対して選択的に啓蒙し、感動をあたえる本である。
生理的にこの本と共振できない凡人は問題外だが、一般科学者は−遊びにこれだけ熱意をかけられるなんて−という見当ちがいの感動や、−こうした奇想天外の発想を検討することが、いずれ本当の科学(というものがあると思っている)に寄与するのだ−などという評価をくだすであろう。それは、この本が「凡人」や「科学者」にたいしてもある程度、意味をもつように巧妙に配慮されているからである。
もし、あなたが、自分がマッドサイエンティストであるか否か、もし迷っているとしたら、この本は、試金石になるであろう。つまり、この本からわけのわからない感動を受けたとすれば、あなたはマッドサイエンティストなのだ。
結論らしく言えば、『SFはどこまで実現するか』はマッドサイエンティストによる、マッドサイエンティストのための、マッドサイエンティストの本なのである。
えー、話がそれてしまったが、とにかく『SFはどこまで実現するか』はすばらしい、ということで、本題に戻る。
たしか、「神になるには」というはなしの途中だった。実際、なにをもって神とするかはなかなかむずかしい。絶対服従する部下が一人以上いると、その部下にとっては神かもしれないが、あまり一般性はない。
また、本人が「我は神なり」と思い込んでいるだけだったとしたら、よくある気違いである。
そもそも、マッドサイエンティストとは「神をめざす」存在で、「神である」としたら、もはやマッドサイエンティストではないのである。
では「神をめざす」として、まず二つの場合が考えられる。一つは「神がいる」とした場合、もう一つは「神はいない」とした場合である。
神がいる場合には、第一に接触すること、第二にとって代わる(あるいは穏やかに継承する)ことを考えなければならない。いない場合は、その場が空席であれば、そこに座ることを、理論的にいない場合には、この宇宙構造を変えるか、あらたな宇宙を創造する必要がある。
人類の経験はまだ短いものであるが、どうも昔の凡人が思い込んだほどに人間的な神様というものはいないようだ。それでも可能性を排除することは、まだできないし、適当でもない。
また人間と直接に意志の疎通をする神様はいないとしても、今のところ、宇宙の創造、生命の創造、それと人間(精神)の創造という点では、説明がつく理論がなく、その意味では創造主としての神の存在は、まだ否定しきれない。
もっとも、生命に関してはDNAの発見以来、生命の合成は原理的には可能と思われている。
また精神についても、コンピューターの大容量化が急速なので、この延長線上で可能と考える人も多い。まだ楽観は早いかもしれないが、この二つの問題に関しては神の存在とは関係なく決着がつくと思われる。
しかし宇宙の創造については、まだ神は不在ではないし、たとえビッグバンの特異点が避けられたとしても、神の存在を否定することはむずかしいだろう。
実際のところ、神とは宇宙の創造者と考えてもよいであろう。それだけではないかもしれないが、すくなくとも「宇宙の創造」は必要条件といえよう。と、すればマッドサイエンティストとしては、まず「宇宙の征服」をめざすことは必然といえよう。
マッドサイエンティストは宇宙を征服しなければならない。
ここで「宇宙の征服」の征服とは文字どおり、既知の全宇宙の征服である。たとえばファッセンデン博士のように小さな宇宙をつくり、そこだけを支配して満足するのは、逃避というものだ。
マッドサイエンティストの目的は、あくまで全宇宙である。もっとも凡人は想像力が限られているため、世界征服が目標とおもっているものだが。
もっとも全宇宙の征服と言っても、その第一歩は地道なものである。著名なマッドサイエンティストの名言に
−今日は春風高校、あしたは日本、あさっては世界を征服するのだ。−
と、いうのがあるが、順当な計画と思う。さらに4日目には太陽系、5日目には銀河系、6日目には全宇宙を征服し、7日目には休むようにすればよい。
冗談はさておき、全宇宙の征服というのは人間の、いや人類の手にあまると考える人もある。しかし、ただ広いからというわけで手にあまるというのは正しい態度ではあるまい。距離は多少は問題かもしれないが、星の数はそう多いものではない。銀河系には、たった一千億程度の星しかないのだ。ここで人口の増加率を考えてみよう。この五十年間に世界の人口はだいたい2倍に増加した。この増加率を当てはめれば、一つの太陽系を征服している種族が、一千億の太陽系を征服するに要する時間は二千年以下である。もっとも超光速技術が実現されなかった場合には、少なくとも距離に応じた時間が、必要になるが。
このような仕事は自動増殖機械による方法がもっとも妥当であろう。つまり、無人で打ち上げられ、惑星に到着すると、そこの資源を掘り出して自己の複製をつくり、また宇宙に広まっていく機械である。マッドサイエンティストは、たいていはなまけものであるから、このような楽に見える方式を採用することであろう。もっとも、必ずしも「機械」である必要はない。「増殖」するだけならば、人間でもかまわない。と、言うより昔からこの方法で人間は増殖し、ついに地球の支配者に成りあがったのだから当然である。
つぎの問題は空間ではなく時間である。つまり支配をいかにして維持するかということが問題となる。諸行無常は世の常であり、仮に全宇宙を征服しても、いずれ滅亡するというのでは意味がない。
一般につよく誤解されていることだが、この世にはエントロピーの法則というものがあって、あらゆるものが滅びることが基本法則だといわれている。これは、いわゆる栄枯盛衰の歴史観に一致しているようにみえ、つい信用してしまうのだが、本当であろうか。
実は、この宇宙には熱的死はこないことになっている。普通に考えると、熱力学の第二法則によって、必ず平衡状態に達するように思えるが、よく考えてみると、この宇宙はビッグバンのときに平衡状態つまり熱的死の状態にあり、そこから熱力学的に進化して今の状態になったのである。
なぜ、こうなるのかというと、理由は宇宙が膨張しているからである。宇宙が拡がるかぎり、エントロピーの捨て場所は常にあるため、熱力学的にみて時間とともに熱的死状態から離れていくという状態が続く。これは、常識とは逆の展開だか、宇宙は時間とともに豊かに、複雑に、熱的死からより離れた状態になっていくものだったのである。ボルツマンは宇宙膨張を知らなかっただけである。
むろん、宇宙の温度はどんどん低下していく。しかし、これは生命の活動を制限するものではない。宇宙が膨張するにつれ、温度は現在の3Kよりも、さらに下がり、ついには絶対零度になると思う人もいるかもしれない。しかし熱力学の第三法則が示すところによると、絶対零度にはけっして到達できない。つまり、この宇宙には低温の限界はない。
どういうことかと言うと、この宇宙の温度が30Kから3Kにうつることと、3Kから0.3Kにうつることは同じ物理的意味をもつということである。さらに未来には、宇宙は10^-10Kに、さらには 10^-20Kになろうが、けっしてゼロには達せず、この宇宙はいつまでも低温化の過程にいつづけることができるのである。
宇宙の未来は、さらに膨張し、さらに低温化した世界になるだろうが、このような宇宙においても知的生命は可能である。いや、可能どころか、現在よりも生物的に豊かになるであろう。このような未来の極低温の宇宙にいる生物は、とほうもなく低温で、かつタイムスケールが著しく長いものであろうが、そのことが思考の質を制限する理由はない。すでに「計算」という行為がエネルギーの散逸過程と独立していること、有限のエネルギーで無限の記憶容量が可能であることが熱力学的に証明されているのだ。(このような仕事はフリーマン・ダイソンなどによって研究されている。)
このことは、むろん宇宙が開いている場合にのみ当てはまることである。幸いにして、この宇宙は、たとえ銀河団の運動から導かれるダークマターを仮定してみても、なお開いているらしいという。めでたいことである。
マッドサイエンティストは、永久機関を創造する必要はない。この宇宙そのものが、永久機関であり、無から有を創造しているからだ。われわれは永久機関の内部にいながら、今までそれに気がついていなかったのである。そして全宇宙を征服することは、そのまま永久機関を手に入れることと等価である。
ところでSFのなかに、開いた宇宙の可能性を扱った作品はないだろうか。私の知るかぎり、たった一つだけある。それはデッチ・サンシャインという、ほとんど日本に紹介されていない作家の「ハッピー・マシン」という短編である。
この作品は、ただ堀晃氏の『マッド・サイエンス入門』の第七章にわずかに紹介されるにとどまっているが、それだけではあまりにもったいない作品である。
マッドサイエンティストはきわめて未来指向的である。彼らは現代に生きているのではなく、未来に、それもはるか遠くの未来に生きているのである。そして、その方向は、基本的に進化思想である。ひらたく言えば、未来は現在よりもよくなるという信念である。これは凡人もおなじと思われる人もいるかもしれないが、どうしたものか、凡人とは驚くほど保守的で、基本的に現状維持を望むものである。で、あるから凡人は宇宙はもとより、世界征服も望まない。望むのは出世だけであり、世界は(時間的にも、空間的にも)均一で変化がないと思い込みたいのだ。
マッドサイエンティストは、それとは正反対の生き方をする。マッドサイエンティストにとって宇宙も、時間も、望むように動く、もしくは動かすものなのだ。世界征服は、その第一歩である。
しかし凡人は、それどころか科学者も、かって世界を征服したものはないという理由で、世界征服すらありえないと思うものだ。この差は理屈ではなく、先天的なものである。
科学者とマッドサイエンティストの違いを示す対話を引用しよう。
「アレキサンダー大王に始まってナポレオン、ヒトラーに至るまで世界征服を企んで成功したものはひとりもいない。」
「む!えらそうなやつめ!それではわたしが記念すべき第一号だ。」
−成原成行−(究極超人あ〜る第9巻より)