藤倉 珊 著
TDSF叢書発行委員会 平成2年8月18日発行
連載第一回
『マッドサイエンティスト入門』とは矛盾したタイトルに思える。なぜならマッドサイエンティストとは人からそう呼ばれるときの名称であり、自分から
「我こそはマッドサイエンティストなり!」
と名のるはずはない。自分でそう言っている者がいるとしたら、それはマッドサイエンティストではないと思って間違いない。なぜならマッドサイエンティストとは通常、自分は天才だと思い込んでいるものだからである。
だとすれば、自らマッドサイエンティストを望む人は(もしいればの話だが)けっしてマッドサイエンティストには成れないことになる。『マッドサイエンティスト入門』が矛盾しているとはこういう意味である。
しかし、この連載は読者がマッドサイエンティストになれるように指導するものではないし、そのように装うことを考えるものでもない。
では、どんなものになるのか?というと実は僕にも全然わかっていない。ただ僕が漠然と考えているマッドサイエンティストとはどういうものか、改めて考えてみたいと思っている。これが『入門』になるかどうか、結論らしいものが出てくるかどうか全くわからないが、まあ同人誌のタイトルなんてこんなものである。
と、いうわけで、この連載はマッドサイエンティストになるための入門書という意味ではなく、またSFで扱われているマッドサイエンティストについて、ガイドをするということでもなく、ただ、ごく個人的な思い込みについて述べていくということになる。もし、よろしければ、つきあってください。では
おもうところ
「わたしの信条を、じっくりと話して聞かせてやるのだ。」
−グレゴール・クライシス−(秋津透氏の作品より)
まずマッドサイエンティストの定義から始めなくてはならない。これは当然、人によって異なるだろうし、分類不能であることをもって定義しようなどと言い出す人もいたりして、なかなか難しいのであるが、ここでは筆者の独断でマッドサイエンティストを定義させていただく。
独断であるから一般的に世間で(?)マッドサイエンティストとよばれていても該当しなかったり、普通サイエンティストとは呼ばれない種類の人間をマッドサイエンティストとして扱うかもしれないが御容赦願いたい。
また、あくまで著者の定義に納得できない人は、そこで読むのをやめてくれればお互いに助かるというものである。
非常に残念なことに、ほとんどの場合マッドサイエンティストに対する認識は間違っている。
もっとも多い過ちはマッドサイエンティストをその研究テーマによって定義しようとすることである。たとえば永久機関を研究しているからマッドサイエンティストであるとか、美女を解剖するからマッドサイエンティストであるというようなことである。
しかし、これはおかしい。前者は(たいていは)無能な研究者にすぎないし、後者は変態にすぎない。もっとも変態とマッドサイエンティストが両立していることは当然有り得る話であり、そうであればそれに越したことはないのだが。
どうも世の中には永久機関とか不老不死などを取り扱うマッドサイエンスという分野が存在していて、その研究に従事する研究者がマッドサイエンティストであるという認識があるらしい。
不思議なことである。なぜなら、そういう分野は存在しないからである。堀晃氏の名著『マッド・サイエンス入門』の序章にも「そんな言葉はない」とはっきり書かれている。(「・」が付いていることに注意すること。なお堀氏の著書はまともな科学のみをあつかっている。解説にもあるように「マッド」なのは堀氏がそれを楽しむ姿勢なのだ。)
永久機関を研究しているのは永久機関研究者、不老不死を研究しているのは不老不死研究者とよぶべきでマッドサイエンティストではない。(もちろん、そうした分野の研究者がマッドサイエンティストでもあるということは大いにあり得るとしても。)
ついでに、ものは言い方であることをちょっと示すと、永久機関というとマッドとあつかわれるが熱力学第一法則の検証というと真面目な科学とみなされる。永遠の生命は普通マッドと言われるが老化のメカニズムを探るといえば納得してもらえる。
少しくどくなったが、ここまで書けば研究テーマによってマッドサイエンティストの定義はできないことがおわかりいただけたことと思う。
つぎに手法が「マッド」である科学者をマッドサイエンティストとよぶ場合もある。美女の解剖や死体の再生などはこの範疇にはいるかもしれない。ひょっとすると建築学の研究のため女子校に忍び込む人なども、この意味のマッドサイエンティストと呼べるかもしれない。
しかし、この定義も不適切である。研究上、専門外の人には「マッド」に見えても専門家から見れば当然の行為に過ぎないことはマトモな研究の場合にもいくらでもあるからである。さらにこうしたことは研究者以外の職業でもいくらでも例があるはずである。
もちろん研究者の数は多いから「科学者」であって、かつ本当に「気違い」である場合は充分あり、現に私の知っているかぎりでも数多い。しかし、この場合は気違い、かつ科学者であってマッドサイエンティストではない。すなわち
マッド+サイエンティスト≠マッドサイエンティスト
なのだ。
このあたりは、いまは
サイエンス+フィクション≠サイエンスフィクション
であることを考えてみればより明確になることだろう。
さらに、既成の体系を越えた理論をあみだしたり、常識を打ち破る発明をなしとげたりする、あるいは目指しているものをマッドサイエンティストとよぶことも適当ではない。
この場合は(ひねくれた用法だが)マッドという言葉を賞賛の言葉として使っているのだ。
素直に「天才」とよべばいいものの、言う方も聞く方も恥ずかしいものだからあえて「天才と気違いは紙一重」という諺を利用して形容しているのだ。
時代とともに言葉は変化するものであり、いつの間にか語源とは正反対の意味になっていたという例はいくらでもある。たとえば、貴様という言葉は昔は敬語だったし、役不足という言葉は本来は役目が軽すぎて能力が充分に発揮できない場合をさす言葉であった。
こう考えるとマッドが天才の意で使われることも一概に悪いとは言えないのだが、この意味でのマッドサイエンティストは今論じているマッドサイエンティストとは全く異なることは勿論である。
(天才科学者という人種も極めて興味深く、一度は論じてみたいものだがそれは別の話になる。マッドサイエンティストと天才科学者は両立している場合もあるが、原則的に別の人種と考えるべきである。)
敬称としての「マッド」の用法は天才の大安売りにつながることが多く、あまり感心しない。
ところが現在、少なくてもSF界ではマッドはこの意味で使われることの方が多くなってしまった。逆に「天才」とよばれる時の方が要注意で、まず冗談か愚弄の意味であると考えた方がいい。
もっとも僕自身は天才と評されることが多いのだが、この場合の解釈はまた後ですることにしよう。
それでは、マッドサイエンティストはなにをもって定義したらよいのだろうか。僕は手段でも外見でもなく目的で定義するべきだと提案する。これは妥当な提案であろうが、必然的に新たな疑問が生じる。すなわち
マッドサイエンティストの目的とはなんなのであろうか。
金か?真理の探究か?いやいや、それらは結局、手段に過ぎない。では権力か?名誉か?単に世を騒がしたいのか?
これらはマッドサイエンティストの過程において大抵ついてまわることだが、所詮は大いなる目的の一里塚に過ぎない。この程度の小さな目標で満足しているようではマッドサイエンティストの名にあたいしない。もちろん学会への復讐など問題外である。
マッドサイエンティストの究極の目的とはなにか。それは自らが神になることである。だから本書ではマッドサイエンティストを次のように定義する。
マッドサイエンティストとは神になろうと志す人間である
この場合、無意識的に神になろうとしていたとしてもかまわない。ただし用いる方法論は自然科学であるとしておく。(たぶん後で、それ以外の方法論についても論じることになるだろう。約束はできないが。)
念のために注意しておくと、神になりうる人間でもなく、神になったほうがよい人間でもなく、もちろん神になることがふさわしい人間でもないのである。
もちろん神とはなにか?というやっかいな問題が出てくることは承知の上である。ここでは、とりあえず絶対者、創造主、全知全能の存在とでもしておいて、後でまたくわしく論じることにしよう。
ともあれ、マッドサイエンティストを論じることは神を論じることにつながることを承知しておいて欲しい。
凡人とは英雄になろうと志す人間である
まあ、たいていの凡人は自分はとても英雄にはなれないとあきらめている場合が普通であるが心の中では「英雄になりたい。英雄になりたい。」という願望を抑え切れないでいるものである。
精神病院を扱った有名すぎるジョークに
患者「俺はナポレオンだ。」
医者「なぜそう思うのですか?」
患者「神様がそう言ったからだ。」
すると隣の病室の患者が
「俺はそんなことを言った覚えはない!」
というのがあるが、隣の病室の患者こそマッドサイエンティストのなれの果て、ナポレオンだと信じる患者は凡人のなれの果てなのである。
星新一が「進化した猿たち」のなかで、自分は神様であるという妄想患者がもっとたくさんいてもよいと思うが案外といないものだという意味のことを書いていたと記憶しているが、凡人というのはうまくいっても高々英雄止まり、それ以上のこととなると考えることさえできない人種なのである。
だから凡人とはマッドサイエンティストがもっとも軽蔑する人種であるし、またマッドサイエンティストは英雄という人種に対して全く尊敬の意を払わない。せいぜい英雄の能力が研究対象として興味深いというのがいいところである。
マッドサイエンティストの立場からみれば凡人と英雄は本質的に同じ種類の人間なのである。
当然ながら、凡人の側でもマッドサイエンティストを本能的に忌み嫌っている。凡人の作になる多くの小説、映画、マンガのマッドサイエンティストを見てみるがよい。ことごとく凡人の側のチャンピオンたる「英雄」の手で倒されているではないか。
つぎに凡人とマッドサイエンティストの中間に位置するとされる科学者という人種について考えてみよう。
科学者の目的とはなにか?これは言うまでもなく真理の探究にあるとされているし、実際にもそうであろう。ただし前にも書いたようにマッドサイエンティストにとっては真理の探究は最終目標に到達するための手段に過ぎない。
しかし科学者にとっては、それこそが最終目標ある。この意味で科学者は神(科学)に仕える聖者のようなものである。
ところがマッドサイエンティストにとっては自分自身が神であるから、科学者は(その能力の如何にかかわらず)自分の協力者、さらにはしもべとみなす傾向にある。もちろん凡人、英雄などよりはよほど高級な人種だとは見なしているのだが。
一方、科学者にとってみればマッドサイエンティストは科学をけがす背徳者である。科学者にとって尊きことこのうえもない科学と過去の大科学者に対してマッドサイエンティストはほとんど尊敬を払わないばかりか侮蔑の対象とすることさえ辞さないからだ。
このあたりの関係も凡人の作になる映画等のマッドサイエンティストを見ればよくわかる。科学者はマッドサイエンティストを「改心」させようとするが当然ながら失敗する。ラストで結局英雄に倒されてしまったマッドサイエンティストに対して彼は
「才能はあった。しかし悪魔の心に取りつかれてしまったのだ。」
とか
「友よ、君たちはなぜ・・・・・」
などと言うのが常である。このパターンが崩れないことは水戸黄門以上であるとさえ言われている。
ここで指摘しておきたいのは目的意識から見てマッドサイエンティストの下位にある科学者はマッドサイエンティストが自分と根本的に異なる人種であることは理解できないことである。もちろん凡人が馬鹿であることは理解できるのだが。(凡人はもちろん最低位にある。)
科学者についてはさらに補足しておこう。本質的に宗教家にちかい科学者は本来敬虔であり、科学に対しては実は凡人以上に恐れているものなのである。
科学者にとっては、科学は人類が積極的に利用するためのものでは無い。科学研究のの結果、人類に益するところがあったとしても、あくまでそれは神からの授かりものであり、けして人間が神の領域に積極的に近づいて奪い取るものではないのだ。
科学の目的はその知識で自らを高めるためにあるのであり、利用するためではないのである。
実際、歴史的にみても、実用を前提に科学の研究をするなどということは、産業革命以前にはほとんどなかったことなのである。
こういう意味では現代に科学者は少数であり、大部分は研究者とさえ言えない開発担当者でしかない。特に日本にはまともで?優秀な科学者はほとんどいないのではなかろうか。ただ、ひたすらDRAMのセル面積を小さくすることに血道を上げる凡人が殆どである。もちろんマッドサイエンティストなどではない。
しかし科学者と別の意味でよりマッドサイエンティストに近い人種はいる。つぎに、この四番目の人種を考えてみる。
マッドサイエンティストが研究するのはあくまで自分のためである。いわば極めて利己的であり、かつ傲慢不遜な人間である。
しかし利己的というならばそういう人種はマッドサイエンティスト以外にも当然いる。商売人つまり金儲け至上主義者である。(むろん人種として理想化した商売人をいっているのであって
現実の職業としての商売人はほとんどが凡人にすぎない。)
さて商売人はなにを目指すのであろうか?むろん究極の商売を目指すのである。
では、究極の商売とはなにか?
これまた難しいのではなかろうかと考えるのは当然だが、最近よい本がでたおかげであっさり判明した。その本は岩波新書の新赤版の一冊としてでた別役実氏の『当世・商売往来』であり、その一五四ページに答えが書いてある。究極の商売とは『星売り屋』である。
これはリゲルやアルデバランを指差し
「今夜からあれは、あなたのものです。」
とだけ言って金を取る商売である。元手なし、在庫無尽蔵、だれからも文句なしという正に究極の職業である。
だが、ここで少し考えてほしい。この男がなにを売っているのかというと結局彼の概念を売っているのである。(他人が評価した彼の概念ではない。評価も自分持ちなのだ。)
つまり彼は概念を金に変えているのである。彼が考えなければそこには何もなかった。つまり彼は無から有を創造したことになる、思いのままに。
これは神の行いではなかろうか。
そう、ある意味では神である。いわば疑似神というべきだろう。無論そう簡単になれるものではない、特に長続きするものには。
しかし究極の商売人が疑似神であるということは間違いない。この点では手法が酷似している科学者よりも商売人のほうがマッドサイエンティストに近いとさえいえる。
これまた凡人作の映画のマッドサイエンティストを見るがよい。マッドサイエンティストは必ず商売人とコンビを組む。
マッドサイエンティストの目的は当面の金と権力であり、商売人の狙いはマッドサイエンティストのもたらす発明を横取りして自分が疑似神になることなのである。しかし、表面的な仲間である科学者の忠告を振り切って、商売人(映画ではギャングだったり、国際スパイだったり、軍需産業だったりするが)と手を結ぶのは両者が本質的には最も近い人種であるからではなかろうか。
むろん疑似神はあくまで疑似神にすぎない。商売人は科学者より若干上の部分はあるがマッドサイエンティストよりは遙か下の人種なのだ。
映画では商売人はマッドサイエンティストを裏切るか裏切られるかのどちらかだが、裏切った商売人は必ず自滅するのがパターンである。これに対してマッドサイエンティストは商売人を裏切ってもそのために自滅することはまれである。このパターンはマッドサイエンティストの優位性を物語っているのではなかろうか。
以上の四人種の性質をならべると次のようになる。
人種 | 理想 | 手段 | 現実 | 代表例 |
マッドサイエンティスト | 神 | 科学の利用 | 気違い扱い | 成原成行 |
科学者 | 聖者 | 科学の追求 | 変人扱い | 利根川博士 |
商売人 | 疑似神 | 何でも利用 | 外道扱い | 邱永漢 |
凡人 | 英雄 | 努力 | 愚か | 大多数 |
ここで、商人が科学を利用しようとすると、マッドサイエンティストと同じになるように思われるかもしれないが、それは間違っている。もっとも重要な要素は「理想」であり、神と疑似神では、大きな開きがある。疑似神はあくまで、その場かぎりのものにすぎない。はるかな高みを望むマッドサイエンティストと所詮は目先の利益に走る商売人とは本質が違っているのである。
いわばマッドサイエンティストは未来指向であり、商売人は現物指向である。
この考え方を科学者と凡人にも適用すると、四者の関係は次のように図示できる。
利己的・求利的 | 非利己的・奉仕的 | |
未来指向性 | マッドサイエンティスト | 科学者 |
現物指向性 | 商売人 | 凡人 |
この分類図からみてマッドサイエンティストと凡人とは一番距離が離れていて共通の言語ではほとんど会話もできないことが予想される。
それに対し科学者とは科学について、商売人とは利益について、それぞれ共通点があり、ある程度までは会話が成立することがわかる。
また、凡人はマッドサイエンティストに対しては高度すぎて、とても理解できないが科学者、商売人に対してはある程度まで追従できるようだ。いまや昔風の暴力的英雄(すなわち凡人)は現実世界ではあまり見られなくなり、この2種の人種から凡人の英雄が登場するようになってきた。特に最近は邱永漢に代表される商売人に人気があるようである。
これは凡人といえども、さすがに少しは進歩があるということを示しているのかもしれず喜ばしいことである。
以上の分類を理解された方にはもはや無用の注釈だが、世間では未だにマッドサイエンティストに対して次のページの図のような認識を持っている人が多い。
嘆かわしいことである。マッドサイエンティストは科学者の中に入るのではなく、いわんや凡人の範疇に入るわけはなく、全く違った人種であるとすべきである。
正しい分類の図をみて誤解されると困るのだが、けして科学者と商売人の共通部分がマッドサイエンティストではない。両立しているのではなく、人種が違うのだと考えてほしい。
さて最後になったがマッドサイエンティストの本質をもっとも的確に示した歌を引用しよう。
我は科学なり 科学は神なり
カオス
我が行く所破壊有り 彼行く所混乱あり
−成原成行−(CD『究極超人あ〜る』より)
では次回から具体的に神になる方法について解説する。