余桁分彌(現 藤倉珊)著
TDSF叢書発行委員会 平成元年8月20日発行
読者は八切止夫という名を覚えているだろうか。第11回で無料本五十冊を有料で進呈するという奇特なことをしていた作家である。『信長殺し光秀ではない』とか『徳川家康は二人だった』などという書名に見覚えがある人も多いだろう。しかし、どこがSFと関係有るのかと訝る人もいるだろう。
実は、今回は珍しい本こそ手に入らなかったものの、日本誤伝SF史に残る、ちょっとした発見があったのだ。それはなにか!?ジャーンなんて勿体ぶらないで先に進もう。
読者諸氏は小松左京という名を御存知だろう。しかしなかには詳しくは知らないという人がいるかもしれない。僕の世代では小松左京の名を知らないなんて考えられないほどなのだが、このごろの若い人の中にはSFというと横田順彌しか読まないという人も多いそうだから、ともかく百科事典の解説を引用することにする。
小松左京(一九三一〜)小説家、本名は実.現代文明の破滅を余覚する独自の 世界観で、SFに緊迫した真実性を示す。大阪生、京大卒〔作品〕<日本アパッチ族> <復活の日><日本沈没>など(講談社『大事典desk』より)
小松左京とはこういう人物なのであるが、さて小松左京と八切止夫の関係はなにかというと、こんな事なのだ。この前たまたま小松左京の『最後の隠密』という短編集を読んでいると『竜虎抱擁』という作品の終わりに次のような注釈を見つけた。
*「上杉謙信女性説」は、八切止夫氏の御作によりました。詳細をお知りになりたい 方は、氏の唖然呆然の大傑作「謙信は男か」「血戦川中島」を是非お読みください。
筆者敬白。
これを見て僕は狂喜した。いままでトンデモ本などに興味がなかった人には感動が薄いかも知れないが、僕がこれを知った時にはかなり興奮してしまった。いつも皆から、そんな意味なし本なんかを集めていてどうするのだなどと言われても何も言えず、くやしい思いばかりをしていたが、今度からは
「小松左京は、トンデモ本からネタを得て作品書いたことがあるんですよ」
と言えるのだ。うれしいではないか。しかも『竜虎抱擁』は女性だった上杉謙信が武田信玄と結婚してしまい、そのまま夫婦で織田徳川を打ち破り…というトンデモない作品なのである。
この感激は横田順彌氏が羽化仙史の正体は渋江抽斎の息子だったと知った時に匹敵する…かも知れないとおもったけれど…しないね。たぶん…自分でも無理している気がする。
さて八切止夫氏の経歴その他についてはよくわからない、と言うより手掛かりがないのだが『隠された日本史−わが腹は赤かりき−』という本によると十八の時から原稿料生活を始め、二十五歳までに三十七冊の単行本を出し、今でいうべきベストセラーに当たる十万部以上のものも三、四点あったというから驚異だ。もっとも羽化仙史は十六歳のとき最初の訳書を出しているようだが。
彼の著書の総数は二百冊ぐらいになるのではなかろうか。僕が入手しているのは前に紹介した木村鷹太郎氏の復刻を含めて十冊ぐらいしかないが、トンデモ本史を語るうえでの正当な評価を与えてみたいと思っている。(なんのこっちゃ。)
さてこの人はいったいなぜ歴史ものばかり書いているのか。それが謎であったが前出の『隠された日本史』にそのわけが書いてあった。そこの部分を引用しよう。
もの書きのさだめ
もの書きとは哀れなものである。(中略)死んでしまえば、はいそれまでよで、一顧だにされない人も多い。
私が十代から原稿料稼ぎできた恩人の、加藤武雄先生も、そのおひとりである。
「きみは若すぎるから、絶対に自分が本人だといってはいけないよ」と注意してくれた。 今にして思えば厚かましい話だが、成城学園のお宅へ自作をもっていっては大きな布団の中から入道みたいな頭をだしている先生に、お願いしますと取次をたのみ、お金を頂いてくるような横着も許されていた。
先生の御不幸のとき私は外地にいて葬列にも加われなかったが、今でも先生の著書を、位牌代りにも思い、感謝している。
だからいいにくいが、さて先生の御本をその死後に集めるのに、私はどれ程の苦労をしたか判らない。ご生前は菊地寛先生と並ぶ大御所だったのに、もの書きというのは、誰も悲しいさだめをもっている。
なにしろ書いている時には、紙質が在する限り活字が読める間は後世に残るであろうと、そんな思いにかられもするが、しょせんは虚しいものらしい。一つの時代に流行したものは、その時代と共に消滅していくのである。思い切った死に方でもしなくては読んで貰えない。
が、まあ、そういってしまえばそれまでだが、ありていは何かというと、その活殺の鍵を握っているのが古書組合である為らしい。
だいたい古本は詩歌小説、歴史地理、科学法律、外国語学の四種にわけて取引される。この中で詩歌小説というのは新本屋では幅をきかしているが、古本屋では長く寝かして置いてもノーベル賞のあてのないものは値上がりするものではないから、あまり歓迎されはしない。さっさと「つぶし」にされトイレット・ペーパーか何かに再生されてしまうらしいと私は考えた。
いくら頑張って書いても行末は水洗で流されるのかと、諸行無常を感じてしまうと書 けなくなる。私もそれゆえ臨時休業をした。そこで考えた。
その結果、これなら古本屋で棚へ並べてくれるというのを見つけた。歴史ものである。
後世の人間の種本か資料になるだけのものを、真剣に書き残すというのを思いついた。しかし考えついたからといって、すぐ始められるものではない。年期が掛かり過ぎた。
なにしろ歴史屋さんのものは、昭和二十年まで、天皇さまは神さまだとか紀元は二千六百年などと堂々といっていられたのだから、とてもじゃないが御信頼いたしかねる。
そこで、こけの一念というやつで自分なりに、徹底的に日本歴史を私はやり直した。
しかし、そんなだいそれた暴挙を、すべてを投げうち何故やったかといえば、なにも私の悲しき愚かさに、それは起因しているわけでもない。
これにはわけがある。少年の日の私を加藤先生が新潮の編集に居た奥村五十嵐に命じ、「文学建設」なる同人誌にいれてくれたからである。そこでは当時連載中だった『新平家物語』に対する批判を、毎号二十頁ぐらい「ここの時代考証は違う」「あれは変だ」と、小学卒だけの作者には気の毒な位に、亡きMや現存のNの名前で手きびしい論難が浴びせられていた。だから、この同人誌の統帥者に私はすっかり恐れをなしてしまい、「どうして、あんなにまで」と聞いたら、当の海音寺氏は、「歴史小説というのは相撲と同じだ。胸をかりて稽古をつけて貰った先輩を、その間違いをついて倒すのは、恩返しというものだ」
と教えられた。だから三っ子の魂百までもというが、愚かな私はそれを、そうと思い込んでいたので、一心不乱に、恩返しするために勉強をしてしまったのである。が、この頃になって、どうも、それは読みを誤ったのではあるまいかと、いくら馬鹿でも考えている。
これは確かにトンデモなさそうである。しかしこれ以上引用しても中近東の宗教史について知識がなければわからないだろう。一回読んだ僕もよく分からない・・・これ以上書くには勉強が必要だし、どのみちこれ一冊では一章もちそうにないし、〆切までによ〜く考えてみよう!
これは信じていいのか悪いのか、笑っていいのか泣くべきなのか判らないが「活殺の鍵」を握っているのが古書組合というのはスゴイ指摘だと思う。後世に残すために歴史ものを選んだという判断が正しかったのかどうかはよく判らないが、とにかく今現在は八切氏の本は古本屋の棚に大量に置かれているのは確かである。但しどんどん店先の百円均一のワゴンに移されているようでもあり、二十一世紀にはどうなるかわからないが。
しかし後世に残す決意で勉強して書いたものが「上杉謙信女性説」だったり平家のヘイは彼らがペルシアから来たことを示す、また源氏のゲンは元でモンゴル族であったことを示すなどという説だったりするのはよく判らない。案外奇を衒った説を出しておいたほうが後々残るという高等な作戦かも知れず、小松先生や僕はそれにひっかかっているのかもしれないのだが。
つぎに、「わが腹は赤かりき」の意味について説明しよう。八切氏は終戦時、旧関東軍将校と付き合って一緒に切腹をしたことがあるという。なにしろ本の最後でまったく唐突に切腹の話がはじまるのだから驚くが、ともかく紹介する。
そのとき、しみじみ覗き込んだ体験だが、「わが腹は赤かりき」で、左右にパックリ口をあいたと思ったら、十センチくらいに横へすうっと広がって、血は出ていなかったが、そこは安物のマグロの刺身みたいな色だった。そのとき
「俺は腹の黒い人間ではなかったなあ・・・」
と思ったが、その反面、
「芝居で、血をみせる赤綿を出すのは嘘だ」
とも悟りを開いた。さて、そのとき誰かが、背後からエィッと首を跳ねていたら、腹に口をあけたまま死んでいたろうが、何しろ肝心な将校連中が中止した。私も老酒をかけられ繃帯されたら二週間で傷は癒着した。
しかし今でも、ひきつれになって、冬は時々鈍痛がするし、夏はいたがゆい。「自腹をきると損をする」とは、このことの戒めでもあろうか。そこで戦後、体験上「ハラキリで自殺はできぬ」という考えの許に、なぜ日本では切腹がこんなに間違えられるのかと、こけの一念、腹を通している位だから、岩をも通さんばかりに張り切った。(後略)
なんか悲壮な決意という気がしないでもないが、このあと切腹とはもともと自決ではなく処刑であったと解説される。ここで八切とは腹切りの古語であるという。つまり筆名の由来はここにあったのである。
例によって、今回の紹介もまた、中途半端になってしまった。これ以上、八切氏の著書をいちいち紹介していってもあまり意味はないような気がする。実際本を読むよりその広告を見ていく方が面白いし、効率のよい紹介にもなる。そこですこし安易だがこのあとはコピーをご覧ください。
ではまた来月。