余桁分彌(現 藤倉珊)著
TDSF叢書発行委員会 平成元年8月20日発行
俵真智の『サラダ記念日』が人気を呼んでいるという。もうすぐ百万部を越す勢いだということでこれはもう大変なものだ。しかし、短歌などというものが最大のベストセラーになるとは誰一人として予想した人はいなかっただろう。全く世の中なにが起こるかわかったものではない。
で、そういうことになると常日頃から、何かブームが起こったら、それに便乗してボロもうけをする方法はないものかと、そんなことばかり考えているぼくは、すぐさま短歌をあつかったトンデモ本はないかと、つんどく本の山をかきまわしてみたりするのだ。
すると世の中とはおもしろいもので、なんとか和歌が載っている本があったりする。不思議なことだが、いつこんな本を買ったのか全然覚えていない。ことによったら、この本の山は自己増殖作用があって自然に仲間のトンデモ本をどんどん増やしているのかもしれない。いや、きっとそうだ。
なんてことを言っていても仕方がない。今回、紹介する本は『和歌式漢字早おぼえ』という。(現代国語研究会編:ベストブック社、昭和51年)
タイトルで内容の推測は充分できるが、その通りの本で語呂あわせで漢字を覚えようという趣旨なのだが、あんまり成功しているとは思えない本だ。例を示すと
僕 :人ありて 業のタテ棒 取りぬれば 僕という字が 生まれでるなり
これは、まあいいとしても次の解説を読むと唖然としてしまう。
この字を書くときは「僕と誤って記しがちです。にんべんの横は「僕」ですから、注意してください。たとえ男の子ではあっても、「僕」の字は中央のタテ棒を必要としません。ミスターはミスと違って、ターの分だけ長いモノをぶらさげているわけですが、この「僕」の字に長大な一物はいらないのです。
この本の作者は対象を中年男性に設定したらしく意図的な下ネタがかなり多い。(と言っても一割程度だが)この結果、印象に残るのは下ネタばかりで、ゆえに受験生用には売れない。受験用なら、こんな本でも売れたかもしれないのに。
勇 :マ田(股)に力を グッと入れ 勇みたつのが 男なり
もはや暗記法どころではない。ところで、この例は短歌になっていないが、この本ではむしろ和歌になっている方が少ない。俳句(五七五)も多いし、長歌もあり、なんと平安時代以降すたれて消滅したはずの仏足石歌(五七五七七七)まで存在する。もっとも多いのは短歌にもなんにもなっていない、単なる五七調の文である。もっとも万葉集のころは現代のような明確なルールはまだなかったと聞いたことがあるから、これが本当の和歌式なのかもしれないが。
賭 :者ありて 貝を賭けるを ギャンブルと 申すなり
この字は「睹」と書き誤りがちです。正しく「賭」と書くよう注意してください。 なお、「ギャンブル」いうのは、犬の仲間で、「ブルドック」の一種です。(後略)
思わずこの本は『欠陥大百科』だったのかと思う一節。しかし意図せずに?『欠陥大百科』になっているのがトンデモ本のトンデモ本たる証。
なお、この例では「賭」を「賭」と書き誤ることを心配した方がよさそうなのだが。(点に注意)
さて、暗記法ついでに、『村上先生のおもしろ記憶術中学英単語』という本を紹介しよう。この本は『ごでん誤伝』の(少数の)熱心な読者のひとりであるSさんから教えていただいたものだ。読者の支援ほどありがたいものはない。こんなヒドイ連載でもちゃんと読者はいるのである。
この本はウマのマークの受験研究社から発行されているが、不思議なことに発行年月日がわからない。カバーにも奥付にも記されていないのである。著者の「はじめに」にには一九八七年十一月とあるので、これよりも遅いことは確実であるが。
参考書類などで、発行年月日がカバーに表示されている例があるが、本とカバーの制作側の連絡にミスがあったのかも知れない。
それはともかく、この本のトンデモなさは、まず前書きにあらわれる。
(前略)記憶術を修得し自由自在に使いこなせるようになるには長い年月とた いへんな努力が必要です。しかし記憶術を応用して書かれたこの本を使って英 単語を覚えることなら、だれにでもできます。(後略)
随分とエラそうに書いているが、この「記憶術」とは要は、頭の中でイメージ化して覚えるということにすぎない。『ペパミント・スパイ』(花とゆめコミックス)の第一話で出てきたあれである。
しかし、実例を見るとほんとうにすごい。
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school: 学校: 巣、クール クル 転がる学校のグラウンド
〔映像〕超特大のハチの巣が風に吹かれてグラウンドを転がっているシーンclassmate: 級友: 暮らす、名と うと級友が
〔映像〕級友のA君が腰に名刀を差して自宅で生活しているシーンprotect: プロ,テクテクと 歩いて スイカを 守る
〔映像〕バットを持ったプロ野球の原選手がスイカ畑の周りをテクテク歩いてスイカ泥棒を見張っているシーン
これを記憶術というのだからビックリ。これは特におかしな例を挙げたのではなく、ほんとうに、こんなものばかりなのだ。これには『海洋渡来日本史』も負けそうだ。名詞を途中で途切ったりして記憶術になるのだろうか。
だいたい、これらの単語はほとんど日本語化していて、いまさら語呂あわせで覚える必要はないものばかりである。むしろ英語との発音・アクセントの差のほうが重要ではなかろうか、と思うのが普通の感覚だろうに。
もっとも驚くべきは次の例である。
build: ビル、どう路に建てる
〔映像〕ヘルメットをかぶった人達が道路にビルを建てているシーン
著者の言語感覚はまったく想像を絶したものがある。なにが哀しくて語源の外来語で語呂あわせを せにゃならんのか。これで予備校の教師が勤まっているらしいから昭和という時代はまったくのどか でいい時代だった。うん。
ページがあと一枚余ったので、次にS・F講談というものを紹介しよう。そりゃ一体なんだと言われそうだが、その名も『S・F講談、にっぽん好色美女伝』というトンデモない本だ。作者は今官一という人で昭和40年に一水社というところから出版されている。
長崎帰り蘭法医学書生の三ツ木十郎太と若き日の平賀源内こと水原門人を中心としたシリーズというが、これは全体の半分。この本は十編から成っているが、五編は雑誌『話の泉』に『SF講談』として載せた前期シリーズ、のこり五編は雑誌『週間漫画』に載せた『にっぽん好色美女伝』だという。これを一緒にして『S・F講談、にっぽん好色美女伝』というタイトルにして平気なところがスゴイ。
では『SF講談』の方はSFになっているかというと全然SFにならない。ごく普通の幽霊譚のあとに次のような台詞がある。
すると源内が「魂魄はエレキテルじゃからのう」といった。
「処女の思いつめた執念は、それだけでも立派なテレパシイ(精神感応電波)になる。」
これのどこがSFだと言いたいが、当時はテレパシイという単語が出てくるだけでもSFだったのかも知れない。あとがきには
お玉さんのテレパシイと、おはんちゃんのカワラケは、この二人の永遠の処女たちに捧げる、哀しい未熟なSF講釈師の、せめてものレクリイームである。
などとあるが、これまた意味不明。しかし、この作者が本気でSFを書こうとしていたことは間違いないようだ。(誤解していたとしても)
今官一は現在のSF界になんら影響を与えていない(ようにみえる)。しかし、少なくともこれからは、日本のSF講談を語る場合、無視してはいけない人ではないだろうか……?
どうも、『サラダ記念日』にひっかけようとしたことは失敗だったとみえて、今回は自分でも、なにを書いているのか、よく分からなくなってしまった。
しかし、あの横田さんですら失敗することがあるのだから僕が失敗しても少しもおかしなことではないのだ。まして、僕は横田順彌みたいに偉くはないのだからな。
と、ぜんぜん反省の色もなく、かえって開き直ってしまい、神田の書店街の三省堂本店2階のSFコーナーの方へ風に吹かれて去っていく……
奇説!解説!また小説!