TDSF叢書1

日本SFごでん誤伝

余桁分彌(現 藤倉珊)著

TDSF叢書発行委員会 平成元年8月20日発行

第二部 異常への旅



第12回  いまさらエントロピー

 未来予測というものはむずかしいものである。『こてん古典』の第36回「明治人の描いた『百年後の日本』」などを読み返すと、本当にそう思う。
 それでも百年後ならばまだ外れても笑って許せる。むしろ今年に西暦二千年の世界を予言するほうが、より難しいのではないだろうか。
V今月の『日経コンピューターグラフィック』に正にそのようなものが載っている。これはCGを中心にした二千年までの未来予測なのだが、どこをどう間違えたのかしらないが、トンデモないものなのだ。百聞は一見にしかず。先ずは冒頭から引用しよう。

 西暦二〇〇〇年と言えばかなり未来的な印象を与えるが、実際にはあとわずか12年後 のことである。すでに手の届く範囲と言っていい。こうした状況に呼応し、二〇〇〇年、あるいは21世紀(二〇〇一年)をテーマにした予測調査報告書あるいは書籍も多く登場 している。しかし、これらの報告書の内容はどれも似たり寄ったりであり、格別目新し さは感じられない。(中略)日本人の想像力には限界がありSFの世界(および規制概 念)を借りて連想してしまうからだろう。
 二〇〇〇年の未来の展望を行うに当たり、ここでは新たな、そして本質的な仮定を設 定した。それはエントロピー増大の法則である。この法則は本来は熱力学の第二法則で あり、簡単に言えば「万物は無秩序化する方向へ進む」ということを表している。我々 の社会に当てはめると、この現象は個性化・国際化などとなって現れ、コンピュータに 当てはめればワークステーション化/パーソナル化ということになる。 /BLOCKQUOTE>

この仮定は確かに目新しいが、本質的に間違っている。エントロピー増大の法則の拡大解釈は今に始まったことではないが、これほど自信たっぷりに恥を晒しているものは珍しい。どこをどう拡大解釈すればワークステーション化がエントロピー増大から導けるのだろうか。この著者は熱力学の第二法則を、と言うより物理を全く理解していない。 それはこの続きを見ればわかる。

 この法則を二〇〇〇年社会に適用するために2つの条件を付けた。1つは「現在がエントロピー増大の法則に従う時代である」ということ。今は宇宙が膨張しているからエントロピー増大の法則に従っているのであり、仮に宇宙の膨張が止まればエントロピー安定の法則になり、宇宙が縮小の方向へ進めばエントロピー減少の法則になるかもしれないからだ。
 2つめの条件は、エントロピー増大の速さにもルールがあり、急に速くなったり遅くなったりしないということだ。仮に、このような事態が生じればそれを正す現象が生じることになる。考えられる例としては、実力以上の経済力を持てば本来の経済力に戻るような圧力が発生する。逆にエントロピーが増大しない状態が続けば強制的に増大化させる現象が生じる。後者の例としては、社会が国際化へと進まなければならないのに、学校教育や学生が閉鎖的なままでいた場合、 1外国からの圧力により、仕方なく海外分校を設立せざるを得なくなるとか、 2若い有名タレントが米国の有名大学へ進学したことにより、米国の大学へ進学する若者が急増する−などによって結果的に学校が国際化していくといったケースが考えられる。

 これはヒドい。第一章で紹介した『近未来のエレクトロニクス』と同じくらいひどい。まず、今から12年後の予想をする人が宇宙の膨張が止まることを心配する必要があるのだろうか、という疑問がひとつ。この論法だと江戸時代には宇宙は静止していたとか、専制君主の時代には宇宙は縮小していたとか言い出しかねない。
 次に「エントロピー増大の速さにルールがある」などとを言っているが、この例を見ると日本の国際化が一定速度で進まねばならないと信じているようだ。これは一体どういうことなのか?(きっと、江戸時代はエントロピーの法則にしたがわない時代だったのだろう。)もちろん熱力学の第二法則はエントロピー増大の速度については何も言っていない。
 だいたい、この2つの仮定はこのあとの論旨に全く関係ないのだからひどい。このあとの予想もはっきり言ってメチャクチャで、二〇〇〇年ごろの60歳、70歳は今の40歳くらいに相当するなどと平気で書いている。老齢化が遅くなるという論旨にも疑問があるが、もっとひどいのは、二〇〇〇年ごろの60歳、70歳の人は今の50歳、60歳の人であるはずだから、そのまま解釈すると、これから12年間で老人は若返ると言っていることになる。
 次に、特にムゴい未来の映画製作について引用する。

 映画の世界でもCGの影響は大きい。当初はアニメ的感覚で受け入れられるが、次第にアニメや実写とも異なる新たな表現手法として確立されていく。
 一九九〇年までは人物の動きや自然現象(木や雲)の表現がぎごちなく、アニメ的制作が中心になる。ミッキーマウスやオバケのQ太郎に相当するCGキャラクタが次々と登場してくる。漫画の主人公は何年たっても同じ顔のまま成長しないのに比べ、CGキャラクタは年とともに成長し、より人間的な動きを身に付けていく。モデリング・データの改良中、データを壊してしまい、手がうごかなかったりするときがあるが、この場合は交通事故に会ったストーリーを作るので、見ている者にはわからない。

CGにすればサザエさんが歳をとるとでも言うのだろうか?そのうえ、データが壊れたときの対策まで、ていねいに「予測」しているのだから呆れるほかはない。
 まだまだ後は続くのだが、今回はこれくらいにしておく。それにしても、仮にも理工系の専門誌であるはずなのにとんでもない記事を載せてくれるものだ。

さて、エントロピーの話が出たから、次に『エントロピー発想の生かし方』という本を紹介しよう。この本は昭和58年、『エントロピーの法則』がベストセラーになっていたときに、いわばキワものとしてゴマ書房からでた本である。
 著者は某大手電機会社の主任研究員(また!)である。いや、日立中央研究所主任研究員で理学博士、高辻正基氏であるとはっきり書いておこう。背表紙の推薦文によると

ユニークで天才的な研究者を揃えているので高名な日立製作所中央研究所の中でも高辻さんはとりわけユニークな学者であるらしい。

 と書かれている。こう並べているところをみると著者は天才的ではないらしい。 それはさておき、この本は最近、古本屋で二百円で求めたばかりなのだが、妙なことに普通、書店のレジで取られるべきのタグが入ったままになっている。こういうことが、おきる場合は 1.万引きされた本、 2.書店のミス、 3.ぞっき流れ、などがあるが、ぼくはたぶん 3.に近い原因ではないかと思う。

 さて、なぜタグのはなしをしたかというと、ここに−エントロピー法則のルーツは老子にある−という副題がついていたからだ。気になって見てみると、表紙には副題はないが奥付には−老子とエントロピーの法則−という副題になっている。さらに帯には−新発想!エントロピー×老子−とあり、カバー見返しには「エントロピー発想は老子でわかる」と書かれている。副題なんて、どうでもいいと考える人も多いと思うがなかなか大変な問題で、こうした本は困ってしまう。さすがにエントロピーが大きい本である。
 さて、著者の言うエントロピー発想とは、(著者の拡大解釈による)エントロピーを下げる発想であるという。つまり高度成長に代表されるエネルギー消費型文明に反している発想一般を指すようだ。
 具体的にはバリ島やインド人の生活がそれにあたるという。そして老子のいう「無為自然」がエントロピー発想の基本と説く。
 以後、老子の引用による記述が続き、「道」にのっとって生きれば、エントロピーは自然に低下する、とか「足るを知る」など大変けっこうな教えが展開される。
 そりゃ、老子様の教えですから、けっこうなことは当然なのだが、エントロピーにむりやり結びつけるところが、この本をトンデモないものにしている。
 たとえばモナリザの美しさをエントロピー的に説明するのだ。すなわち 1.モナリザの美しさは「目」と「口」の微妙なアンバランスが作り出している。
2.つまり部分のアンバランス(無秩序)が全体の美(秩序)を生み出している。
3.これは全体の秩序をつくるため部分的な無秩序は避けられないことを示している。
4.これがエントロピーの法則のあらわれである。
という理屈になる。こじつけも、ここまでくると感動を呼ばずにはいられない。
 また、エントロピー社会ではおちこぼれが出ないという。その具体例としてバリ島では精神障害者さえ邪魔物扱いされていないと説く。

 ある村では、どうしてよいかわからないことになると、人々は聖職者のほかに、場合によっては精神障害者のところへおうかがいを立てにいく。答えはデタラメかもしれないが、ともかく尋ねたほうは、神のお告げを聞いたと思って判断の基準にするのだという。だから、精神障害者も、社会の一員としての役目を果たし、全体のバランスがとれている。

 これをエントロピー発想というのだからオソれいってしまう。しかし、よくよく考えてみると著者が非難する現代文明でも同様なことが行われているのである。レーガン大統領は星占いをあてにしていたといって非難されているが、きっとアメリカ全体のエントロピーを下げようとしていたのに違いない。

 またエントロピー社会とはゴミがでない社会だという。つまり善悪をきめつけ、悪を捨てようとするからエントロピーが高まるので、老子のように「足るを知り」善悪どちらも受け入れれば、バリ島のような理想郷になるのだという。
 ここまで来て、急に気がついたのだが、この『ごでん誤伝』などは正にエントロピー発想そのものではなかろうか。現代の基準で言えばゴミとしか扱われない本をあるがままに受け入れ、新たな価値を見出す。まさにエントロピー発想に他ならない。
 今まで自分でも気がついていなかったが、僕は老子だったのだ。孔子に指南車を譲ったり、五老峰で座禅を組んでいるばかりが老子ではない。僕のように日夜、トンデモ本に埋もれて生活している老子だっているのだ。それにしては僕の本棚のエントロピーは高いのだが、これだって世界全体のエントロピーを低めることに貢献しているに違いない。
 と言うわけで紹介はまだ途中なのだが、僕が老子になってしまったので今回はこれでおしまい。
 〔これからは僕のことをドクターラオと呼んでくれ給へ。〕




日本SFごでん誤伝連載第13回に続く


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