余桁分彌(現 藤倉珊)著
TDSF叢書発行委員会 平成元年8月20日発行
あけましておめでとうございます。
もう七夕も近いというのに申し訳ないが、お正月はめでたい。お正月を祝うのは日本人の国民性と言うものだ。さて今年は卯年だというから、それにちなんで猿の話をしよう。『こてん古典』で猿といえば当然、孫悟空だ。
というわけで、少々論理に無理があるような気もするが、我が『ごでん誤伝』でも西遊記の話をすることにした。
しかし西遊記と言っても、『きまぐれ悟空』とか『ゴーゴー悟空』なども含めると膨大な数になって、とても終止がつかない。また小学生向けの本の中には「孫悟空たちは天竺についてから幸せに暮らしました。おわり。」という、ブットンダものもあり、ごでん誤伝向きと言えないこともないのだが、ちょっと扱う気になれない。
とはいうものの、およそSFのファンともなれば(特にこの「と」を入手するほどの者ともなれば)『日本SFこてん古典』を当然読んでいるはずだし、そのなかで充分トンデモナイ西遊記の話が紹介されている。
ならば、ごでん誤伝ではそれ以上のトンデモナイものを紹介せねばならない。しかし、そんなものがあるのだろうかと、疑う向きもあることだろうが、それがしろうとの赤坂、六本木、神保町。世にトンデモ本の種は尽きまじ。僕はおもむろに、君の知らない、そして『こてん古典』にもない『西遊記』そして“孫悟空”のことを書きはじめる・・・・・。ジャジャジャジャーン。
『日本SFこてん古典』第十二回で昭和二十三年に翻訳されている『後西遊記』という作品が紹介されて、こう書かれている。「今後『西遊記』の新訳がなん百篇でても、この『後西遊記』は二度と訳されることはないだろう。そういう小説なのだ。」
ところがギッチョンチョン。横田順彌氏がSFマガジン一九七四年3月号に、こう書いた三年後、恐らく無関係に『後西遊記』が訳されているのだ。
訳者は寺尾善雄という人、略歴によると当時、秋田書店勤務という。『中国珍奇怪異物語」(旺文社文庫)などの著書のほか、『人物・中国の歴史』(集英社)の執筆なども担当している。発行は秀英書房というところで、奥付は東京都千代田区だが『茨城の寺』『茨城・民話のふる里』などの本を出しているところからみて茨城県の出版社らしい。この本は地方・小出版流通センターか、店主の趣味?でこの本を入荷した奇特な書店を探すかしなければ手に入らない。なんで向ヶ丘遊園北口のブックスフレンドにこの本があったのかわからない。
ストーリーは『こてん古典』で紹介されているので、ここでは省略する。>BR>
こてん古典では作者は天花才子という人と紹介されているが、新訳では作者は不明と書かれている。訳者は昭和二十三年の翻訳と『日本SFこてん古典』のことは全く知らないらしい。昭和二十三年の堀書店の訳はA5判六百五十ページというが、新訳はB5判で三百九ページである。これは新訳は全訳ではないからである。訳者は
一体に、中国の小説は冗漫で、日本人の読者にはピンとこない個所がたくさんある。本書は、そんな個所を遠慮なくカットし、さらに今日的な批判を適当に織り込みながら、 楽しく読める物語にしたつもりである。したがって、本書は原文の逐語訳ではないので、これをもととして原書を読まれたら失望されるであろう。
とことわっている。本書で問題になるのはこの「今日的な批判」ということなのだ。一七八三年の中国の小説の訳にとって今日的な批判を織り込むとはいかなることか。ちょっと引用を見ていただこう。これは妖怪“解脱大王”と捕らえられた三蔵法師の後継者“半〓”和尚との会話なのだが・・・
「坊主め、いい加減なことを言うな。俺さまには刀を捨てろといいながら、貴様の弟子 には武器を持たせているではないか」
「あれたちの武器は、仏道に仇なす妖怪を打ちこらしめるために仏から授かったもの。お前の武器とはわけが違う」
「そうすると、平和を愛好する社会主義国の持つ原水爆と、戦争屋の帝国主義国の持つ原水爆とは、同じ原水爆でも意味が違うというのだな」
「その通りだ」
「帝国主義国が原水爆を捨てさえすれば、世界は平和になるのか」
「いかにも。社会主義国が世界を征服するために原水爆を使用するはずがない」
「すると、おめえは“いかなる国の原水爆にも反対する”という考え方には不賛成なんだな?」
「あたりまえだ。造反有理、侵略された者、圧迫された者が武器をとって立ち上がることは常に正しい。資本主義勢力、帝国主義勢力は常に不正であり、それらを粉砕することは常に正しいのだ」
「馬鹿な。そんな理屈があるものか。だれが持とうと原爆は原爆だぞ」
ことわっておくが、社会主義国の原水爆を認めている方が“半〓”和尚である。三蔵法師はよくぞこんな危険思想の持ち主を後継者に選んだものだ。
しかし、これが「今日的な批判」なのか、単なるギャグなのか解釈に苦しむところだ。ごでん誤伝の対象作品は〔著者の意図とは異なる観点から見て楽しめる作品〕であり、意図的なギャグは対象外というのが建前である。まあ、上の引用だけを読むと「単なるギャグ」としか思えないが、そもそもこの『後西遊記』という作品それ自体が(二百年前の)パロティ小説であり、当時の「今日的な批判」が相当盛り込まれていたと思われるから、考えようによっては「原作」の雰囲気を再現した名訳なのかもしれない。
参考までに、もう一個所引用してみよう。これは竜王の仏教談義の部分である。
(前略)ある国では新興仏教が盛んになって来たため、それまで悪口をいっていた文化人どもは、すっかり口をつぐんでしまいました。下手に中傷でもしようものなら、信者から総攻撃を受けるからです。それどころか、その新興仏教関係の雑誌は原稿料が高いので、文化人どもも、書かせてもらおうと思って逆にご機嫌をとった結果、いまや押しも押されぬ一流の総合雑誌になってしまいました。
二百年前の中国の情勢はよくわからないし(調べてもいないから)、原作者の意図は全く不明だが、原水爆はともかく、新興仏教がいつのまにか権力と権威をもってしまうことは現代日本も中世中国もおなじではなかろうか、とこれは冗談。それにしても、原作の『西遊記』は仏教宣伝臭がかなり強く、この『後西遊記』では、そのあたりを皮肉る部分が多い。
そもそも、『後西遊記』で天竺まで取りにいく三蔵真経の真解とはいかなるものか。はっきり言って『こてん古典』を見てもよくわからない。『後西遊記』を読んで驚く。つまり仏教は難解であるから解説書(真解)が必要だと言うのだ。かくして孫履真一行は天竺まで坊主のアンチョコを取りに行くのである。
また原作『西遊記』で太宋が冥府に連れられ、崔判官(元太宋の臣下)が閻魔帳の太宋の寿命を十三年から勝手に三十三年に書き直したために助かったエピソードがある。これなどずいぶんいいかげんな話だと僕も思っていたのだが、『後西遊記』では孫履真が閻魔王にこの不正を摘発するのだ。事実を知った閻魔王は困って当時の唐の皇帝、憲宋の寿命を二十年縮めてしまう。
これなど、『西遊記』ファンで、ひねくれ者にとっては実にうれしいエピソードなのだがこれも正統的『西遊記』ファンにはおもしろくないかもしれない。
『こてん古典』では藤と葛の沈没妖怪がおもしろいと書いてあるが、この本ではそんなにおもしろくない。なにしろ、太白金星老は、植物を倒すには根を攻めなくてはいけないとは言わないのだ。横田氏の本とは違うのだが、訳が違うのか原典が違うのかは分からない。
代わりに出てくるのは五行説である。「木ハ土ニ克ツ、金ハ木ニ克ツ」というわけで、太白金星老から金を産み出す「金母」を借りてきて沈没妖怪を倒すのである。なかなかいうことが科学的とは言えないところがいい?
この秀英書房では『後西遊記』のほかに『水滸後伝』、『後三國演義』という本を出していて〔古典名作後伝シリーズ〕とまるで『こてん古典』と『ごでん誤伝』を足して二で割ったようなタイトルで出版している。まあ、中国にもいろんな人がいるものだし、日本にもいろんな出版社があるもんだ。
なお、この本は表紙には『後西遊記』ではなく『後西〓記』と記されている。多分これが元題なのだろうが、この漢字は第二水準にも無いようだし、それどころか活字さえ無いようで奥付にも、『後西遊記』と記載されているので、ここではそれに従うことにした。〓という字は角川の『新字源』には載っていなかったが、富山房の『増補詳解漢和大字典』という二千百八十ページある辞書を調べてみたら遊の俗字とあった。
まあ、SFファンでも、こんな字体が必要になる場合があることを覚えておけば、いつか話題のタネぐらいになるとおもう。(『ごでん誤伝』って、とっても親切なページだなあ)
次に紹介する作品は『西遊記』ではないが、みんなの知らない「孫悟空」の登場する小説。題名を聞いて驚くなかれ、その名を『悟空太閤記』という。
この名を聞いて内容の推察ができた方も多いかもしれないが、秀吉は孫悟空の生まれ変わりであったという凄い設定の物語である。作者は湖南博志という人で、今年の一月に上巻が、三月に下巻が出ている。出たばかりの本ではあるが、発行が松本書店、発売が少年写真新聞社というあまり聞いたことのないところであるため、たぶん誰も知らないんじゃないかと思って紹介することにする。
秀吉は孫悟空の生まれ変わり(実際は憑り移ったあと霊魂レベルで合体する)のほか、信長が三蔵法師の生まれ変わりという一寸信じられない設定。また猪八戒は前田利家(幼名、犬千代であり、ちよ八戒という苦しいしゃれを出す。)だが沙悟浄はどうしようもなく、河童忍びの沙五という忍者に生まれ変わっている。
この話の始まりは西暦六百六十四年、玄奘三蔵が死ぬところから始まる。西遊記のあとなのに旃檀功徳仏にも闘戦勝仏にもなっていないのが気になるが、まあいい。玄奘の魂を追って孫悟空は冥界まで追っていこうとするがブラックホールに危うく落ちそうになる。観音菩薩のおかげで助かった悟空は、すでに三蔵が生まれ変わったと知り、人間登録所の閲覧室のモニターを操作して転生先をさがす。
このあたり、SF風小道具がいろいろ出てくるが必然性も科学性もなく単に作者がSFに媚びているように思われて、むしろ不快である。
さて吉法師こそ三蔵法師の生まれ変わりと知った悟空は尾張の百姓の童ひよしに憑り移る。さて戦国時代を舞台に孫悟空の大活躍が始まる、と期待した僕は大きく裏切られてしまった。この孫悟空、やっぱり仏になった悪影響か、理屈をこねるばかりで殆どあばれることはしないのである。これは、この本が『西遊記』の続編ではなく『太閤記』の新解釈として書かれているためである。むしろ『炭素大功記』と比べた方が良いくらいである。
蜂須賀小六が超音波で蜂をあやつる妖怪だったり、斉藤道三が(やっぱり)蝮の妖怪だったりはするのだが、だからといって金箍棒を振り回したりはしないで智恵?で戦うのである。これではおもしろいわけがないうえ、はっきり言ってわけがわからない。
たとえば、この小説では今川の軍師太原雪斎が書いた「天塔絵図」(天守閣の設計図)がなぜだか非常に重要な役割を持っている。いかに天守閣が時代を先取りした発想であっても、その時代のだれもが設計図を追うというのはおかしい、そのうえ重大な鍵となるのが天守閣への昇降手段であり、その解決の手段はブロッケンの妖怪によって悟空が現代にタイムスリップし、もちかえった現代の岐阜城のロープウェイのロープにあるというのだから本格的にわけがわからない。あるいは地元にしかわからない意味があるのか、作者が岐阜城のロープウェイの関係者なのかもしれないが。
ものがたりは二巻、八百ページを費やしても、桶狭間までもいかず(作戦は立てる)に終わってしまう。終わり近くなって唐突に多次元多重再生装置というものが出てきてパラレルワールドおち?になってしまうのだが、結末がついたわけではない。
ページ数の関係ではなかろうか。というのはちょっと作者に酷だろう。ぼくの見るところ、秀吉は孫悟空の生まれ変わりというのはともかく、信長が三蔵法師の生まれ変わりというのは余りにも矛盾が大きくて、信長が本格的に活躍する桶狭間以後はとてもフォローできなかったのではなかろうか。
本の帯に「太閤秀吉は、なぜ朝鮮出兵を命じたか」と書いてあり、要するに秀吉=悟空が信長=三蔵法師の天竺行きの意志を継いだからというのが答えらしいのだが作中このアイデァが充分活かされているとは言い難い。
しかし、付録の編集部便りには、この本を「史実をふまえて、しかも想像力豊かな物語」とあって絶句してしまう。
はっきり言って、この本から引用部分を探したが紹介に値するような個所はない。(もちろん、ハチャハチャにみえる部分を探したのであって「史実をふまえて、しかも想像力豊かな物語」という観点からはおもしろいかもしれないのだが。)
ところが編集部がつけた付録が以外にトンデモナイ。特に「対談『悟空太閤記』に描かれた史観」がおもしろい。これは『悟空太閤記』にある十八の歴史上事件のあつかいに関する対談であり、いかに『悟空太閤記』が史実をふまえているかを論じたものである。
小野 天文十五年頃には、矢矧川に橋は架かっていなかった。しかし、ひよしと蜂須賀小六が、矢矧橋の上で出会う場面は、太閤記の見せ場の一つですからね。橋が無いのなら、取り外し自在な仮設の板橋を架けるという発想は、柔軟で自由な想像力の産物ですね。
坂本 一夜橋を造った智恵と技術が、美濃攻めの際の墨俣に、一夜城を築く史実に繋がるとするところに、真実を創造でつかまえていこうとする、作者の姿勢がうかがえますね。一夜橋に限らず『悟空太閤記』は江戸期の『絵本太閤記』などより、遥かに史実を踏まえています。
これなど読者が矢矧橋の歴史論争を知らないと面白くもなんともないが、知っていてもこじつけ以外のなにものでもない。これを以て「史実を踏まえています」というあたりがトンデモナイ。
ついでに、この本、愛読者カードを送ると『たいなあ忍法極意書、心の巻』(経文折り)をプレゼントするというが、ぼくはまだカードを送る気になれないでいる。それにしても、このプレゼントからすると、この本ジュブナイルだったのだろうか。内容的にはとても子供向けとは思えないが、活字が10ポイントと異例に大きい点も気になる。
ところで、孫悟空といえば『西遊妖猿伝』という大傑作があるが、これがすでにアニメ化されていることを御存知だろうか。ぼくも、まだ見たことがないのだが水曜日の七時からフジテレビで放映中と聞く。ただし原作と異なること『スケバン刑事』以上なので知る人が少ないという。なんでも主人公が神通力がない「人間孫悟空」であることだけは同じだが、竜児女は仙丹を自動車に変える術を使ったり、通臂公はなぜか亀の甲羅を背負って出てくるそうだし、紅孩児は狼牙風風拳という妙な拳法を使ったりするそうである。未見のぼくとしては大いに期待している。
〔注〕矢矧橋:太閤記中で蜂須賀小六と日吉丸が出会う場所。当時、橋が無かったことが記録にあり、これだけを根拠に太閤記を史実無視と非難した学者がいたという。明治に侯爵様となっていた蜂須賀家が、先祖を野盗としている太閤記を不快と感じ、御用学者に命じて非難させたともいう。