余桁分彌(現 藤倉珊)著
TDSF叢書発行委員会 平成元年8月20日発行
□ 現代に『炭素太功記』はあるか
神田の本屋で大枚六八〇〇円を財布の底からはたきだし、〈少年小説大系〉第8巻『空想科学小説集』という本を買ってきた。六八〇〇円と恐ろしい値段ではあるが、それだけの価値は充分にある。現在、極めて入手困難な古典SFが九編も載っているのだ。一冊当たり七五〇円と考えればお買い得であろう。しかも編者は横田順彌氏であり、長文の解説が載っている。しかし、なんと言ってもあの『炭素太功記』が収録されていることがすごい。
日本SFこてん古典の第1回で紹介された『炭素太功記』は、その名こそSFファンの間で知られているが、その性格からいって非常に復刻され難いと思われていた。それが仮にも「近代日本を代表する大衆児童文学作品を網羅した」と称する〈少年小説大系〉に収録されてしまうのだからものすごい。ホントなら『炭素太功記』のどこが近代日本を代表する大衆児童文学作品なのかねーと首をかしげるべきなのだろうが、そんな評価とは無関係に復刻はうれしい。
しかし読後感は、はっきり言って「非常に疲れる」の一言である。始めの十ページくらいはいい。しかしあの調子で起伏が全くなく、奇怪な科学解説とも小説ともつかぬ文が復刻版で約八十ページも(原本で二百八十ページとか)続くのだ。
私ははっきり言ってこの本をあまく見ていて、日本SFこてん古典での引用はもっともハチャハチャな部分だけをピックアップしたものだと考えていた。ところが実際は負けず劣らずのハチャハチャが化学用語を交えて長編一冊分続くのである。かんべむさしの『集中講義』もあの長さだからいいのであって一冊分続いたら読者がバテてしまう。これだけ続けた作者もたいへんなものだが、この作品を「非常に読みやすくおもしろい」と評した横田氏もえらいものだ。
『炭素太功記』のようなものは非常に稀なケースと思うが児童向けの科学解説書で擬人化、小説化は珍しいことではない。<炭素>を例にとってもベンゼン環を作っている六個の炭素原子が同窓会を開くというストーリイの科学解説書などがある。(これは傑作であり、笑い物にしてはならない。)しかし、れっきとした一般向けの本で擬人化の手法をとっているものは数少ない。全面的に電子の一人称で書かれた『わが輩は電子である』などは珍しい例に入るであろう。この本は講談社のブルーバックスに入っているので御存知の方も多いだろうが、あえて読む人も少ないと思うのでちょっと紹介することにする。
冒頭を引用すると
わが輩は電子である。と言ったところで、わが輩の存在をはっきり知っているのはわが輩だけである。住む家もなければ、親もいない。残念ながらどうして生まれたのかも知らない。
そんなわが輩であるが、生物がこの地球上に出現する以前から住んでいたのである。
こんな具合だが、小説的なのはここだけである。あとは全てまともな科学解説になっていて「電子」以外の登場人物?は後に述べる陽電子を除けばいない。電子は自分だけを「わが輩」と呼んでいてあとは原子、分子などとしているのだから少々読みにくくはあるが、科学解説書としてはマトモなものである。『炭素太功記』的な展開を期待して読むと失望すると注意しておこう。唯、陽電子を解説した部分のみハチャハチャと言えないこともない。
(前略)、アメリカの物理学者アンダーソンによって、このわが輩の恋人−陽電子−が実在することが実証されたのである。そして物理学者達は、陽電子をわが輩の真の恋人であると結論付け、反粒子と呼ぶようになった。さっそくわが輩は自分の気に入った恋人を探しはじめたのであるが、中性子が発見されたときよりもさらに衝撃的なことが起こったのである。と言うのは、わが輩の同僚が自分で恋人(陽電子)を選んで結婚し、二人が結ばれると、なんと質量のない光子に変身してしまったからである。 陽電子と結ばれることによって、質量のない光子に変身するということは、わが輩がこの地球上から完全に消滅したも同然であり、わが輩の名誉が著しく傷つけられたことになる。それならば、質量のない光子からわが輩が生まれる機会があるのかと物理学者にたずねたところ、確かに可能であるという答えが返ってきたのである。まったく不思議な現象である。
「完全に消滅したも同然」なのに「名誉が著しく傷つけられた」程度ですますところはさすがに電子だけのことはある。
一般に科学者が擬人法を使うと一人よがりで奇妙なものになりやすい傾向がある。例えば某古生物学界の大家による、恐龍を主人公にして古生物学を解説したと称する本は、はっきり言って読むに耐えない。ハチャハチャとしても面白くないので引用はしないが雌のブロントザウルス、ブロンティが主人公とは悪趣味極まる。
(ホワイトの「宇宙病院」という短編でもブロントザウルスに似たようなネーミングをしていたが。)
さて、妙な例えが続出するということでは次に紹介する『入門レーザー技術』はたいへんなものである。これは一九八六年にあの日本経済新聞社から出版されている本で、著者は某大家電メーカーの主任研究員であり、当然まじめそのものの本である(はずである)。ところが前書きでなぜか忠臣蔵が出てくる。引用すると
この松の廊下の場面に当てはめると、内匠頭が上野介の言葉に激高して、怒髪点を衝く
状態になったのが「反転分布」で、ついに堪忍袋の緒が切れて刀を抜くところが「誘導放
出」である。
これを読むと、浅野内匠頭が「オレの怒りは爆発寸前」とつぶやきながら吉良上野介をレーザーブレードで切りつける場面を想像してしまう。なぜ忠臣蔵を例えに出したのか意図が全く不明であるし、適切な比喩とも思えない。しかし、これは序の口。この本は想像を絶した比喩の連続なのだ。たとえばレーザーの共振器(向き合った二枚の鏡のこと)をお寺の鐘に例えるのである。
つり鐘の音色は、材質(銅とスズの比率)で決まるとされているが、その複雑な表面か
ら判断すると、撞木で打たれた鐘は、いろいろな振動をしているに違いない。つり鐘の内
部の大きな空間も、鐘の振動に共鳴して空間を揺らしているだろう。(中略)レーザーで
も共鳴器(共振器と呼ぶ)が、重要な役割を果たしている。強力な光を取り出すには、大
きな共鳴器が必要である。
複雑な表面というのは(確かに釣り鐘の表面は複雑だが)振動の判断に直接、結びつきそうにないし、その次の文は「空間も、空間を揺らしている」となって意味不明である。恐らくレーザー光を用いた寺の鐘の振動解析のようなものが著者の頭にあると推測できるが、それとレーザーの共振器とはイメージ的に全く結びつかない。強力な光を取り出すには、大きな共鳴器が必要であるという論理もなんかおかしい。それだけではなく、この共振器の解説がまたすごい。
海岸の岸壁に立って、沖から海岸に向かってやってくる波を見ていると、岸壁に衝突し
て波形が崩れてしまい(そこでエネルギーを失う)、再び沖に向かって帰っていけない波
が多い。
私は岸壁に立って波を見たことは随分あるが、波が岸壁で反射して沖に向かって帰っていくのを見たことがない。著者が言いたいことは、レーザーの波を反射する場合は岸壁と異なり波形をくずしてはいけないということらしいが、例えになっているとは思えない。ひょっとすると良く観察すれば岸壁で反射する波があるのかもしれないが・・・・
さらに、準安定状態(レーザー発振の上の準位)の説明に蒸気機関車の引き込み線を持ち出したかと思うと突然、準安定状態は峠の茶屋だと言い出すあたりは相当すごい。
準安定状態を、本線の鉄路に対して、引き込み線だといったが、引き込み線に入った蒸
気機関車は、時間が経てば消えてしまうのである。準安定状態とは峠の茶屋みたいなもの
だと考えればよい。旅人は茶屋で一休みしたら、おもいおもいに峠を下っていく。準安定
状態にいる粒子も、時間がくれば光を自然放出して基底状態に落ち着く。したがって「ど
こかで一つの粒子が光を自然放出する」現象が最初に起こる。
なにが「したがって」なのだか僕にはちっともわからない。たぶん、電子軌道の複雑なエネルギー状態図をみて鉄道の引き込み線を連想したらしいが、それが準安定状態のたとえになっているとは思えない。しかもなぜ蒸気機関車なのか不思議だし、それが脈絡もなく峠の茶屋になってしまうのは何を意味しているのかわからない。
どうも著者だけが納得している卓抜な比喩であるらしい。
しかし、期せずして奇想天外なSFになっているとは考えられないだろうか。無論、小説ではなく、そういう意図も体裁もあるわけがない。しかし少なくとも科学の本であることは間違いなく、僕はこの本を楽しめたことも確かである。そう僕はこれこそ現代における『炭素大功記』ではないかと真面目に思っているのだ。
しかも、『炭素大功記』は子供向けであったが、この本は一般向け−それも「ビジネスマンのためのレーザー解説」なのである。この点に関していえばトンデモナイ度は『炭素大功記』を超えるかもしれない。
さて、この本本来の、つまりマジメな科学解説書という意味での価値であるが・・・著者には悪いが少なくとも僕にはよくわからなかった。と言うより物理的に完全に間違っていると思われる個所がかなりあり『近未来のエレクトロニクス』に匹敵しそうなほどだ。この点については、僕の独断では不安なので、一応レーザーが専門の人にも聞いてみたが、やっぱり間違えているということなので、自身を持ってトンデモないと言わせてもらう。レーザーの解説書で発振しきい値の話が全く出てこない本という点でも珍しい。
はっきり言って昭和というのも不思議な時代だなあ。
それから、僕の立場を明確にしておくために念を押しておくが、本は出版されてしまった以上読者のものであり、どんな読み方をしようが読者の勝手なのである。